問い

1. 直接的な経験から離れるほどに、捻じれ反転していくものがあのだろうか?

2. 不当を訴えるつもりが、まるで相手のやり方を真似るように相手を疎外し、その結果、自分自身を疎外してしまうのは何故か?

3. 親密性を築くつもりが、相手の立場を貶め、悪意の有無に関わらず、時には相手を思うあまり、相手を支配・搾取してしまうのは何故か?

4. 関係を手段として使う時に、疎外や支配が起こるのだろうか?

5. 主観が現れる際に、存在が背景に隠れるとしたら、存在が顯れる際には、主観もまた隠れるのだろうか?

6. 言葉的な思考により、主体と客体を分離させているとしたら、非言語的な思考をしている際は、主体と客体はどうなっているのかだろうか?

7. 主体と客体が統合したものが自己だとしたら、あるいは、いくつかのパーツからなるさまざまな水準の自我の組織化が自己だとしたら、それは存在論的には、観念論的には、自然哲学的には、どのように説明できるのだろうか?

〈技〉を育む

 技術というものは、普及すれば当たり前になって消えていく、そして慣習や制度に取り込まれ、通例として執り行われる。しかし、単なる技術ではなく匠の〈技〉というのは、相手の、自分の資質を伸ばしたり、組み合わせたり、そうした工夫であって、制度化できないもののように思える。

 そう考えていくと、自分の実践を〈技〉化するというのは、〈目利き〉と〈見立て〉と〈手仕事〉の過程の繰り返し、しかしそれは螺旋状に状況を展開していく。そのためには〈技〉を繰り出す、積み重ねられた知識や経験、知覚や運動のイメージからなる〈体力〉が必要になると考えられる。

 そうした実践に対する態度や思考をとりまとめるものを持ちつつも、それさえも時には取り下げたり、修正したりする柔軟さが必要で、それは相手と関わることで自分自身も変わってしまうことを受け容れる〈勇気〉のようなものかもしれません。〈技〉はあるか、〈体力〉はあるか、〈勇気〉はあるか。

 変化というのは、AがBになることではなく、AかA‘になったり、AのなかのBが減ったり増えたり、AからBへ、BからAへと行き来できるようになることではと思う。そのものが持っている気質を変えるというよりも、凸凹した能力をなだらかにしたり、得意を伸ばしたり、苦手を克服するようなものを育てたりすることではないだろうか。

 だから、基本はそのものが既に持っている能力を見極めて、それが能いかたちで発揮されるように関わっていくことが前提となる。また、新しく学習するためには、これまでの学習パターンが邪魔をすることがある。そのためには学習を解体する必要があるし、解体された後に相手の能力が発揮されるような状況を整える必要もある。そして、それはどちらを選んでも相手の状態がよくなる方へ方向づけらるものである。学習の主体は相手であるし、変化するのも相手である。相手を変えようとすることは害になることが多い。相手が変われるような状況を整えることが基本となる。

 そして、問題は小分けにして、段階的に進んでいくことが大切である。小さな変化(学習)が積み重なり、大きな変化となる。はじめに述べたようにいきなり別のものに変化することは難しい。既にある能力を見極め、それに似た能力(相称性)を育てるのか、それと対する能力(相補性)を育てるのか見立てた上で、どのような関わり方をして、それがどんな変化を起こすのか予測をしながら、段階的に状況を整えていくのが基本となる。そして、予測をしながらも、予測しなかったような偶発性や例外も取り込みながら、学習をリフォームしていくこととなる。対話の中の小さな変化(潜在性 virtualite)の機微を読み解きながら、その機微を育てたり、実際の生活構造の中で取り込まれ、生活構造がリフレーミングされるようなことが望ましい。

 対話で相手を変えるということは、ある種の洗脳や支配になりかねない。変化の主導権は相手にあり、相手が持っている本来のニーズ(無意識の思考と意識の思考が一致した)に合わせて変化は起こるものだと考えられる。そのためにはニーズ自体も段階的だったり、時には拡大したり、収縮したりしながら、現実的な可能性に沿っていくことも必要となる。そうした時には、対話の中で、問題とされていることの再定義/再構成をしながら、学習の背景(コンテクスト)をニーズに沿ったものに変形していくことが必要となる。ニーズと対話の文脈(学習の背景や問題の状況)を時には変形させながら、相手の生活の負担が減ったり、心身の苦しみが楽になるような、どうしたら相手の役に立つのかを考え抜いた上で、それを相手と共有し、協働しながらデザインしていく能力が必要となる。

研究ノートのようなもの

はじめに

 上田勝久さんという方が書かれた『個人心理療法再考』という、心理療法の臨床家に向けて書かれた本があります。この本の内容は日本の心理臨床で、個人心理療法を十全に機能させユーザー側のニーズに合致した支援をする為の工夫を論じています。その工夫はどれもがとても重要で学派に関わらず、臨床家が日頃の臨床に照らし合わせて考えるための羅針盤になるような本です。

 その中に、事事無礙法界とドゥルーズの潜在という言葉から日本の心理療法を考察されている箇所があり、とても印象に残っています。その議論をシステム論的な立場から論じられないかという考えがあり、今回の記事で少し言葉にしてみたいと思います。研究ノートのメモ書きのようなものですが、お付き合いいただければと思います。

 

『個人心理療法再考』からの引用

 まずは、事事無礙法界の解説の後で、ドゥルーズの潜在について触れている箇所を引用します。

引用①

 個々の事物事象が無限の可能性を秘めた「理」の一部をrealizeしたものであるならば、それはちょうどユングのいうセルフ(海)と自我(波)の関係を彷彿とさせます。私たちは何らかのこころや形態を生きますが、そこには生きられていないこころや形態も同時に存在します。私はたまたま男性を生きていますが、そこには依然として女性を生きる可能性、両性を生きる可能性、どちらでもない性を生きる可能性も同時進行しています。

 ドゥルーズ(一九六八)はこのような「実現されてはいないが同時進行的に潜伏し続ける可能性」をvirtualiteと呼びました。主に潜伏性と訳されるタームです。ドゥルーズはこのvirtualiteをpossibiliteとは区別して考えています。たとえば、「ドングリの実はいつか樫の成木になるだろう」というように、possibiliteがすでに現実化したものから回顧的にその未来の可能性を追うときに用いられるのに対し、virtualiteは現実化を顧慮せず、それ独自の実在性を有する可能性のことを指します。ドングリの実という「卵」は、もしかしたら突然変異を起こしてまったく見知らぬ新種になるかもしれませんし、植物とは異なる何かになる可能性だってあります。こうしたまったく予想だにしない可能性は、未だ実現はせずとも――たとえそれがどれだけナンセンスと評されたとしても――その実のなかに潜在しています。

引用文献

上田勝久(2023)『個人心理療法再考』金剛出版 p. 193 より引用

 ここ(引用①)ではドゥルーズで潜在について触れています。これは、分節化される前の未決定な動きともいえるかもしれません。次に、上田さんが考えられる日本の心理療法について論じている箇所を引用します。

引用②

 東畑は日本流心理療法を「認知行動療法をトッピングした精神分析もどきのユンギアンフレイヴァー溢れるロジャリアン」と称しましたが、私はこれをうらからよみときたく思います。すなわち、日本流心理療法の価値は、認知行動して的でもなく精神分析的でもなくユング派でもなく、ロジャーズ派でもない、こうしたーー否定神学とも通じるーー否定命題によって語られるアモルファス性(鑪、二〇〇七)にあるのではないでしょうか。このアモルファス性は各々の説明モデルをもつ学派という「事」同士の関連性のなかで、心理療法心理的な支援の中核的な意義を浮かび上がらせる余地をつくりだしている様に思います。しかし、では、その中核的な意義とは何かと問うても、それは「〇〇療法のようでありながら、〇〇療法ではないもの」でしか答えようが中、そこにあるのは「空」ということになります。

 ゆえに、日本流心理療法は、セラピストがあらかじめ想定する理論的参照枠や志向性のなかで事態が展開するという発想ではなく、むしろ面前の来訪者との作用や関係性や関連性のなかで、それ固有の新たな理論的参照枠や志向性、あるいは心理療法それ自体が生まれてくるのを「待つ」という形にデザインされているといえるかれません。そして、それはvirtualiteへの道筋となっているのかもしれません。

 絶対的な「本質」を同定しないこと。私はここに日本流心理療法の真価があると考えています。

引用文献

上田勝久(2023)『個人心理療法再考』金剛出版 pp. 197-198 より引用

※ 1 太字は原文の表記に従っています。

※ 2 東畑さんの文献は、東畑開人(2017) 『日本のありふれた心理療法―ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学』誠信書房、になります。

※ 3 鑪さんの文献は、鑪(2007)「アモルファス時間構造という視点からー対人関係論から見た日本の臨床」精神分析研究第51号第3巻 pp. 233-244、になります。

 ここ(引用②)では、日本流心理療法がどのように機能するようにデザインされているのか述べられています。

敢えて(肯定的な)批判してみる

①仏教思想とドゥルーズについて

 なぜ仏教思想である事事無礙法界とドゥルーズの潜在、つまり「リゾーム」や「生成変化」が関連づけられて論じられたのかについて、(肯定的な)批判をしてみると、仏教思想や「リゾーム」と「生成変化」は、個人というより差異と発生の思想であり、そもそも個人とは何か?という問題が論じられないままになっています。そこには、河合隼雄の「中空構造」などの日本の自己に対するとらえ方や哲学や思想の前提があるように思えました。

 システム論こそ個人という考え方は無いのですが、ただ説明の為の方便として、それに近いことをあげたりはします。しかし、本質的には事象をあくまで相互作用と文脈(コンテクスト)で捉えようとします。そういう意味では、坂部恵の〈ふるまい〉や〈かたり〉に近くて中空構造論が避けられなくなります。日本では、理性よりも場当たり的な振る舞いや面子のようなものが大事にされそう。つまり、西洋的な自己と、日本的な自己の違いがあるのではないでしょうか?

心理療法の水準と自己組織化

 心理療法には、関係の水準と要素(身体的な要素を含めた各パーツ)の水準、それぞれを扱うのだけれど、それは直接的ではなく、言語やイメージ、運動や表現(箱庭、絵画や芸術)といったものを介在させている。それは統一ではなく、程よく折り合いがつく程度の組織化(自己の回復)を目指すといえるのかもしれない。そうなると上田さんの論じられていることは日本的な自己のニーズに合致した心理療法といえるのかもしれない。だとしたら、それはどのように実践されるのか、自己組織化の水準によっても、治療構造や期間が変わってくるのではないでしょうか?

③説明モデルが無いと学ぶ人は苦しい

 とはいえ、否定命題によって、〇〇でなく、〇〇でなく、〇〇でない心理療法は、純粋主義ではない、生成モデル的(ある意味、これは河合隼雄心理療法序説』の自然モデルと考えられる)なもので、心理療法の理論の概観を理解し、実際の心理療法の難しさを体験している臨床家には工夫できるけれど、知識や経験を身につけている最中の臨床家にとっては、難しさがあるようにもみえます。この難しさをどのようにすればよいのでしょう?

(肯定的な)批判の洗い出し

①仏教思想とドゥルーズ(『差異と反復』)
→自然モデル(仏教思想)と発生モデル(後期ドゥルーズの自然哲学とコスモロジー
→西洋の自己と日本の自己、河合隼雄の中空構造、井筒俊彦の分節化、坂部恵の〈ふるまい〉
心理療法と自己組織(主体)化の水準
→技法群の整理と適応、評価基準(心理療法のアウトカム)
③学びと習いの問題
→日本流の心理療法からは、教育と説明モデルの問題、養成と権威の問題、雇用と待遇の問題、という臨床家が置かれた三つの困難な問題が考えられます。しかし、これらの議題は『個人心理療法再考』で論じられている議題を超えている為、本題とは一旦切り離して検討した方が良いでしょう。

検討すべき項目の整理

1. 河合隼雄の中空構造(河合隼雄『中空構造日本の深層』中公文庫、を参照)と吉本隆明共同幻想論(菅野寛明『日本の哲学 再発見 吉本隆明 詩人の叡智』講談社、を参照)

2. 河合隼雄の自然(じねん)モデル(河合隼雄心理療法序説』岩波書店、を参照)

3. 井筒俊彦の分節化と華厳経井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を索めて』岩波書店、を参照)

4. 頼住光子の道元モデル(頼住光子『正法眼蔵入門』角川ソフィア文庫、を参照)

5. 坂部恵の〈ふるまい〉と〈かたり〉(坂部恵『ペルソナの詩学 かたり ふるまい こころ』岩波書店、を参照)

6. 68年までのドゥルーズ(超越論的経験論)と68年以降のドゥルーズ(自然哲学とコスモロジー)、小林卓也『ドゥルーズの自然哲学 断絶と変遷』法政大学出版局、小林卓也・講演「脱人間化から非人間主義へ ー ドゥルーズの自然哲学概説」、を参照)

7. 宇野邦一の日本の生成変化の解釈に対する指摘(宇野邦一ドゥルーズ 群れと結晶』河出書房新社、を参照)

8. ドゥルーズガタリ千のプラトー』とジャン・ウリの制度精神療法(ドゥルーズガタリ千のプラトー 資本主義と分裂症』河出書房新社)→エコロジー的な視点、地理学、歴史学だけでなく地質学(言語学)や系譜学(展開)として捉える(ニーチェフーコーの仕事)。

9. 日本の哲学・思想との再接続(檜垣立哉日本哲学原論序説 拡散する京都学派』人文書院、を参照)

補足

①説明モデルについて

 説明モデルが無い事の功罪を考えると、説明モデルがある事の功罪もまた考えなくてはならない事に気づきました。そして、説明モデルとは自身の認識に関係しているものと考えられる。本来の説明モデルは、外部の事象を論理化したものを、内部に理論化したものと考えるならば、説明モデルは与えられるものというより、各自で形成していくものとも考えられます。つまり、説明モデルが無いという、説明モデルもありえるのかもしれません。しかし、初学者の基本的なガイドラインとしての説明モデルが必要というのも、またひとつの考えであると言えそうです。

 繰り返しになりますが、説明モデルが無い事による功罪を考えると、説明モデルがある事による功罪も考える必要もあるでしょう。そして、時代の流れとしては説明モデルが求められるでしょうが、絶対的な本質を中心に置かないという日本流心理療法の真価があるとしたら、具体的な説明モデルを置かない事もまたひとつの説明モデルかもしれません。それは、外的な事象から、今、ここで起きている事を論理化すると同時に、自分自身の内的に起こる思考や振る舞いを論理化することこそが、説明モデルといえるのかもしれません。そして、『個人心理療法再考』では、日本流心理療法の真価は市場原理との相容れなさにあるのではとあります。以下、重要な箇所を引用します。

引用③

  ですが、こと日本龍心理療法においては、その価値は市場原理との相容れなさにこそあるのではないかと私は考えます。

(中略)

 しかし、当然ながら市場原理は人の文化形態のひとつにすぎません。そして、たとえば哲学や宗教学がときに市場原理や社会的・政治的文脈と交わりながらも、それ独自の道筋を見失うことなく発展してきたように、臨床心理学や心理臨床学もまた本来そのような文化体系であると私は思います。

 このような本を執筆しておいて卓袱台返しをしている感じもしますが、私は心理療法心理的支援の射程は市場原理をはるかに超えていると考えています。この営みは「サービス」や「ユーザー」という言葉で表される世界を超えた展望をそなえています。日本流心理療法の輪郭づけられなさは、ひとつの原理では語りえない人間の複雑さとその多様性を受け取る容器として機能しているのではないでしょうか。

引用文献

上田勝久(2023)『個人心理療法再考』金剛出版 pp. 199-200 より引用

 引用③の最後の一文、〈日本流心理療法の輪郭づけられなさは、ひとつの原理では語りえない人間の複雑さとその多様性を受け取る容器として機能しているのではないでしょうか。〉にこそ、上田さんが考える日本流心理療法の真価があるのではないでしょうか。ちなみに、システムズアプローチでは、複雑で多様な来談者と家族に対して常に柔軟に応答できるように、何時でも修正可能なケースフォーミュレーションが必要と考えられています。

ドゥルーズではない理論について

 仏教思想とドゥルーズでないやり方として、東浩紀さんの「動物化するポストモダン」の物語論(fig 2)が援用できると考えられます。

↓網状言論Fー動物化するオタク系文化

TINAMIX

 東さんは後に、『動物化するポストモダン』を書かれていて、これは物語論としても読むことができそうです。

③治療構造論との違い

 栗原和彦『臨床家のための実践的治療構造論』金剛出版、では、実践での治療構造論の具体的な活用法が論じられています。『個人心理療法再考』では心理療法の構造ではなく機能に焦点を当てられています。

神田橋條治先生のコツシリーズ

 『個人心理療法再考』の巻末には、神田橋先生の引用もいくつか出てきます。神田橋先生のコツシリーズの具体的活用法としても読む事ができそうです。

おわりに

 ひとまず、本記事では検討すべき項目を整理したところで終わりたいと思います。何度か加筆修正しつつ、いずれまとまった文章になればと考えています。お付き合いありがとうございました。

〈土地〉と〈政治〉と〈友愛〉の系譜学

 ポリス市民は、〈土地〉(そこで生まれるもの、食物や物質だけでなく歴史や言語といった歴史学や地質学のようなものも含めて)と〈民主制〉(これは政治的なものだけなくアーレントのいう活動のようなものではと考えています、しかしポリスには奴隷制度や女性に市民権がない問題もあります、本文の議題を考える時に市民ではない立場からも思考することは重要だと考えられます)と〈友愛〉を大切にしていたようです。ドゥルーズはこの三つを哲学を考える上で大切なものだと考えていました。この三つの要素の関係から、人間の社会がどのように展開していったのかを考えてみるのがよいのではと考えています。

 日本的なホモソーシャル(男性社会独自の〈絆=傷つき〉という連想が浮かびます、そこには〈傷の反転〉という現象や保護の名のもとに搾取や支配という暴力が生まれてしまう構造があるのでは?)とは違うものなんだろうか。はたして、どういう社会だったのか反省の鍵として気になるところです。

 〈友愛〉(好敵手や競争相手も含む)を結びつきと考えるなら、なぜ人は集まり、どうして社会の中で生きる(でしか生きられない)のか、それを社会の中からでなく、いったん外側へ出て(十牛図の過程のように)、外側から考えるとはどういうことなんだろうか(そういう文脈では、中井久夫は敢えて内側に入って医局制度を内側から批判し、ウリやガタリは制度という社会の秩序を生態的に考えたのかもしれません)と思います。中井久夫に影響を与えたサリヴァンは人間の精神や社会という現象をシステムとして捉えようとしていたのかもしれません。

 〈土地〉と〈民主制〉と〈友愛〉(女性の場合は連帯になるのでしょうか?同性愛はどうなるでしょうか?議論すべきことは沢山ありそうです)の三つで考えていくと、ドゥルーズサリヴァンに繋がっていきます。私人としてのドゥルーズは仲間との友情を大切にしたし、サリヴァンは精神医学に政治的にも貢献した(DSMやWHOへの貢献)。そして、同性同士の〈絆=傷つき〉のこと。ぼんやりとだけれど、先述の三つの要素は社会の中で生きる人間を考える鍵になると考えられそうです。

 このように考えていくと、異性同士(あるいは性別の関係のない同士)の恋愛や性愛とは異なるパートナーシップというのは、その先の議論に関係してくるのかもしれません。そのうえで、人間同士の絆(=傷つき)とは、なんだろうというテーマに回収されていきそうです。ふと、岩田靖夫『神なき時代の神』にあったレヴィナスの顔や他者と死の話題、デリダの『法と力』と『赦すこと』、梅木達郎『放浪文学論』が浮かびます。

 〈絆=傷つき〉と〈赦すこと〉、あるいは普遍的な正義が及ばない、普遍の手前の、個人的な体験のまま思考(アーレントのいう思考や対話、他の立場に立って複数性を架橋する意味で)するということ。それは自発や協調、和解や歓待に関するのかもしれません。人間は他者を必要とし、誰かと言葉を交わし、活動します。

 その活動は、〈土地〉と〈民主制〉と〈友愛〉という時間や場所、歴史と出来事と雰囲気で起きます。それは〈領土(線を引くこと)〉と〈概念的人物(発明すべきこと)〉と〈概念(創造すべきこと)〉であり、〈境界を引くこと〉と〈違いを吟味すること〉と〈違いを架橋すること〉という和解の過程なのかもしれません。

 そして、ドゥルーズフーコーの友情(そこにはドゥルーズが使う「闘争」という言葉や嫉妬もあったのかもしれないし、ギリシア哲学は地理的思想のぶつかり合いにも見える)と、パレスチナ(この地名からは、二人のパレスチナに関する政治的活動や発言の違いと、ドゥルーズがイツハク・ラビンと同日に亡くなった事実、アラファトのその後、現在のパレスチナを思い浮かべます)のこと。それは、歴史と主体を、解体したフーコー換骨奪胎したドゥルーズという二人の闘争であり、そこには〈土地〉と〈民主制〉と〈友愛〉の系譜学あったのかもしれません。

 ちなみに、ここでいう〈土地〉は土地から生まれるものであり(そこには〈地質学=言語学〉も含まれるのでしょう)、〈民主制=政治〉は人の集まりから生まれるものであり、〈友愛〉は人との関係から生まれるものであり、系譜学は時間とともに展開していくものを扱うと言えます。ちなみに、〈民主制=政治〉からは、祭事、擬制共同幻想吉本隆明)、を連想しますが、ひとまず人の集まりから生まれるものとしておきます。あらゆる情報とモノが世界中に行き渡った現在の社会(資本主義のような見えない秩序)とは何かを考えるときに〈土地〉と〈政治〉と〈友愛〉が大切になるかもしれません。

〈私〉の論理学

 「魂が宿る」、「魂が抜けた」という表現はあるのに「意識が宿る」、「意識が抜けた」という表現は違和感を感じてしまう。それは、意識が存在することは当然で、宿ったり、抜けたりするものではない、という感覚があるからだろうか。それとも、意識は常に同一、あるいは単一のもので、意識を意識している存在を私と呼び、他でもない私という存在は一人しかいないからだろうか。

 「魂」という言葉は、どこか割り切れないところがある。どことなく境界が曖昧だったり、ふわふわと浮遊して出たり入ったりしているような語感があるので、宿ったり、抜けたりするのには違和感がない。中国には「魂魄」という言葉があって、「魂」は陽・天・精神を意味し、「魄」は陰・地・肉体を意味するらしい。また、西洋ではプネウマ=霊、プシュケー=魂という言葉があり、プネウマは息吹、プシュケーは個性という意味もあるらしい。とにかく、これらの言葉から、生命だったり、人間だったりの論理のようなものを感じてしまう。そして、ゾーエーとビオスや、普遍性と個別性という言葉を連想してしまう。

 意識は、流れや滞りのなかの特異点のようなもので、意識は実在しないとか、心は概念で存在しないとか、私は現象だから私自体を把握できないとか言い出したら、それを聞いた人はどのように思うのだろうか。人間味が無いとか、心無いとか、ニヒリズム虚無主義)だとか言われたり、思われたりしてしまうのだろうか。意識が、同一や単一のものでなく、〈今〉=〈私〉は、まさに流れつつあるもの(「生・滅・生・滅・生・滅……」)の澱みや、揺らぎのようなもので、その特異点として、存在の二重性や矛盾を包摂しながら、展開/消尽していく裂け目(切断面)のようなものではないだろうか。

 意識を認識するもの、心を構成するもの、精神を把握するもの、それはいったいなんだろうか。根源的な時間は順序しか無いものかもしれないが、私にとって本来的なのは、順序だけでなく、過去、現在、未来という私からみた時制がある時間だ。私があるということは、〈今〉=〈私〉という特異点が生じていることだとしたら、私は実存するといえるのだろうか。「意識を失う」、「意識が戻る」という表現からは、意識が接続したり切断したりすることや、アクセスやシャットダウンという言葉を連想してしまう。それは、ネットワーク上(この場所にはおそらく非−同一/非−単一的な離接的綜合も含めた)に現れる特異点であり、〈今〉=〈私〉こそがネットワークを接続したり、切断したりする論理(=連結)なのかもしれない。

〈セラピー/カウンセリング〉の〈再定義/再構成〉

 人間が人間に対して提供されるセラピー/カウンセリング(支援・援助・相談・ケア・治療)といったことについて考えると、再定義/再構成が重要性を持っているように考えられます。
 それは個人の持っている枠組み/参照枠/認知(フレーム)やその前提となる文脈(コンテクスト)を再定義/再構成が起こる場がセラピー/カウンセリングといえるからです。この場合、セラピーの方が再定義/再構成の傾向が強く、カウンセリングは自分自身の定義/構成の仕方を整理する傾向が強いといえるかもしれません。
 また、セラピー/カウンセリングはさまざまな水準の学習、つまり生理的・身体的・人格的・対人的・社会的といった多水準の学習を扱っていて、その多水準の学習のパターンから問題を見立てていると考えることもできます。よって、セラピー/カウンセリングでの話題もさまざまなものがでてくると考えられるのです。そして、この学習の文脈(コンテクスト)を捉えなおすことが再定義/再構成なのです。
 セラピーは暴力や理不尽な出来事に関する訴えも多く、被害と加害、真実と正義、利害と搾取、傍観者の反応と言説の扱われ方、など政治的な側面を持つこともあります。その時に、セラピスト/カウンセラーの態度や応答が重要なことは言うまでなく、安易に中立性を保つことが、相手から無関心さや自分の語りを正当に扱っていないという不信感に受け取られてしまうこともあります。そして、こうした体験は無力感につながり、セラピー/カウンセリングに訪れた人を再び傷つけてしまうことになります。
 こうした政治的な水準でも、セラピー/カウンセリングでは学習を扱っています。不当な扱い、差別や搾取をされてきた人に対しては、中立性を保つよりも、その人が悪くないことや不当な扱いを受けていることを明言し、今までの支配/追放されるような関係で身につけてしてしまったことを手放したり(脱学習)、生き延びていくための方法を身につけたり(再学習)、自分自身の能力や資源(リソースの掘り起こし)という既に持っているものを育てたり(自分に向けての慈愛や肯定)することが必要になると考えられます。
 しかし、その際に無理矢理にセラピスト/カウンセラーの価値観を学習させたり、安全な配慮/構造がないのに、その人の文脈(コンテクスト)を解体することは、再び支配関係(権力勾配)を体験させることになったり、その人の主体感覚を奪い無力感を強めることになったりします。このことは、常に注意したいことです。その兆候である分断されたものや否認されものを読み解き、一方的な関係から双方的な関係によって依存を手放し(完璧ではなくほどほどの関係)、異なる意見や立場を架橋するのはセラピスト/カウンセラーの仕事です。
 その際には、まずは安全/安心な構造を整えることだけでなく、セラピスト/カウンセラーが心身だけでなく、さまざまな水準(距離感、座席の位置、面接室の雰囲気だけだなく、面接に誰を呼ぶのか、守秘義務の範囲、同意書の説明や面接の目的の合意形成といったセラピー/カウンセリングの過程を含めて)での境界(バウンダリー)に配慮し、その人が自ら境界を引きなおすための、異議申し立ての目撃者や場面になる必要があります。
 こうした、セラピー/カウンセリングの場を整えること自体がセラピスト/カウンセラーの仕事ですし、あくまで再定義/再構成するのはその人で、セラピスト/カウンセラーはそのための土壌を整えていくと考えた方が、境界を侵襲したり、主体感覚を奪うことを起こしにくいと考えられます。そのためには、セラピスト/カウンセラーが柔軟な態度で応答し、その人の訴えを受け容れながら、その場を修正し整えていくことが必要です。
 そのためには、ケースワークなどの生活を支える具体的な支援、行政などからの援助、弁護士など専門家の相談、信頼できる対人関係やグループワークなどの仲間とのケア、医師の治療、といった生活の土台が必要となります(これはセラピスト/カウンセラー自身の安全/安心も守ります)。そういった安全/安心の土台があってこそ、再定義/再構成が、その人が生き延びて幸せに向かっていく方向性を持ち、その人自身の回復の仕方(表現)をみせるのだと考えられます。

〈運命〉と〈贈与〉

 私とは過去と未来の切断面として現れた「邂逅」の場である。どうしようもない偶然と、この私である必然に、苦悩し、抗い、受け入れながら、「邂逅」の場で生成と消滅のあいだで賽の一振りに賭(命懸)ける。それは、世界への信頼、あるいは「愛」なのかもしれません。
 現代は、予測と制御/再現性の可用性によって〈今、ここで〉という瞬間に賭けざるえない生命の〈運命〉、あるいは偶然と必然の反転からなる世界の裏(ベンヤミンデリダ的な未来)を隠蔽されている。〈運命〉は決定論ではない、そこには〈媚態〉〈意気地〉〈諦観〉という人間的な実存のあがきがある。
 こうしたことは、檜垣立哉先生の文章(「賭ける―人生の修練としての賭け」『越える・超える』に収録)で述べられていて、偶然と必然や生と死の反転は、山内志朗先生のパラドクスと贈与に関する文章(「人は死んだらどうなるか?」「現代思想」のビッククエスチョン特集)とも重なる議論だと思います。