はじめに
上田勝久さんという方が書かれた『個人心理療法再考』という、心理療法の臨床家に向けて書かれた本があります。この本の内容は日本の心理臨床で、個人心理療法を十全に機能させユーザー側のニーズに合致した支援をする為の工夫を論じています。その工夫はどれもがとても重要で学派に関わらず、臨床家が日頃の臨床に照らし合わせて考えるための羅針盤になるような本です。
その中に、事事無礙法界とドゥルーズの潜在という言葉から日本の心理療法を考察されている箇所があり、とても印象に残っています。その議論をシステム論的な立場から論じられないかという考えがあり、今回の記事で少し言葉にしてみたいと思います。研究ノートのメモ書きのようなものですが、お付き合いいただければと思います。
『個人心理療法再考』からの引用
まずは、事事無礙法界の解説の後で、ドゥルーズの潜在について触れている箇所を引用します。
引用①
個々の事物事象が無限の可能性を秘めた「理」の一部をrealizeしたものであるならば、それはちょうどユングのいうセルフ(海)と自我(波)の関係を彷彿とさせます。私たちは何らかのこころや形態を生きますが、そこには生きられていないこころや形態も同時に存在します。私はたまたま男性を生きていますが、そこには依然として女性を生きる可能性、両性を生きる可能性、どちらでもない性を生きる可能性も同時進行しています。
ドゥルーズ(一九六八)はこのような「実現されてはいないが同時進行的に潜伏し続ける可能性」をvirtualiteと呼びました。主に潜伏性と訳されるタームです。ドゥルーズはこのvirtualiteをpossibiliteとは区別して考えています。たとえば、「ドングリの実はいつか樫の成木になるだろう」というように、possibiliteがすでに現実化したものから回顧的にその未来の可能性を追うときに用いられるのに対し、virtualiteは現実化を顧慮せず、それ独自の実在性を有する可能性のことを指します。ドングリの実という「卵」は、もしかしたら突然変異を起こしてまったく見知らぬ新種になるかもしれませんし、植物とは異なる何かになる可能性だってあります。こうしたまったく予想だにしない可能性は、未だ実現はせずとも――たとえそれがどれだけナンセンスと評されたとしても――その実のなかに潜在しています。
引用文献
上田勝久(2023)『個人心理療法再考』金剛出版 p. 193 より引用
ここ(引用①)ではドゥルーズで潜在について触れています。これは、分節化される前の未決定な動きともいえるかもしれません。次に、上田さんが考えられる日本の心理療法について論じている箇所を引用します。
引用②
東畑は日本流心理療法を「認知行動療法をトッピングした精神分析もどきのユンギアンフレイヴァー溢れるロジャリアン」と称しましたが、私はこれをうらからよみときたく思います。すなわち、日本流心理療法の価値は、認知行動して的でもなく、精神分析的でもなく、ユング派でもなく、ロジャーズ派でもない、こうしたーー否定神学とも通じるーー否定命題によって語られるアモルファス性(鑪、二〇〇七)にあるのではないでしょうか。このアモルファス性は各々の説明モデルをもつ学派という「事」同士の関連性のなかで、心理療法や心理的な支援の中核的な意義を浮かび上がらせる余地をつくりだしている様に思います。しかし、では、その中核的な意義とは何かと問うても、それは「〇〇療法のようでありながら、〇〇療法ではないもの」でしか答えようが中、そこにあるのは「空」ということになります。
ゆえに、日本流心理療法は、セラピストがあらかじめ想定する理論的参照枠や志向性のなかで事態が展開するという発想ではなく、むしろ面前の来訪者との作用や関係性や関連性のなかで、それ固有の新たな理論的参照枠や志向性、あるいは心理療法それ自体が生まれてくるのを「待つ」という形にデザインされているといえるかれません。そして、それはvirtualiteへの道筋となっているのかもしれません。
絶対的な「本質」を同定しないこと。私はここに日本流心理療法の真価があると考えています。
引用文献
上田勝久(2023)『個人心理療法再考』金剛出版 pp. 197-198 より引用
※ 1 太字は原文の表記に従っています。
※ 2 東畑さんの文献は、東畑開人(2017) 『日本のありふれた心理療法―ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学』誠信書房、になります。
※ 3 鑪さんの文献は、鑪(2007)「アモルファス時間構造という視点からー対人関係論から見た日本の臨床」精神分析研究第51号第3巻 pp. 233-244、になります。
ここ(引用②)では、日本流心理療法がどのように機能するようにデザインされているのか述べられています。
敢えて(肯定的な)批判してみる
①仏教思想とドゥルーズについて
なぜ仏教思想である事事無礙法界とドゥルーズの潜在、つまり「リゾーム」や「生成変化」が関連づけられて論じられたのかについて、(肯定的な)批判をしてみると、仏教思想や「リゾーム」と「生成変化」は、個人というより差異と発生の思想であり、そもそも個人とは何か?という問題が論じられないままになっています。そこには、河合隼雄の「中空構造」などの日本の自己に対するとらえ方や哲学や思想の前提があるように思えました。
システム論こそ個人という考え方は無いのですが、ただ説明の為の方便として、それに近いことをあげたりはします。しかし、本質的には事象をあくまで相互作用と文脈(コンテクスト)で捉えようとします。そういう意味では、坂部恵の〈ふるまい〉や〈かたり〉に近くて中空構造論が避けられなくなります。日本では、理性よりも場当たり的な振る舞いや面子のようなものが大事にされそう。つまり、西洋的な自己と、日本的な自己の違いがあるのではないでしょうか?
②心理療法の水準と自己組織化
心理療法には、関係の水準と要素(身体的な要素を含めた各パーツ)の水準、それぞれを扱うのだけれど、それは直接的ではなく、言語やイメージ、運動や表現(箱庭、絵画や芸術)といったものを介在させている。それは統一ではなく、程よく折り合いがつく程度の組織化(自己の回復)を目指すといえるのかもしれない。そうなると上田さんの論じられていることは日本的な自己のニーズに合致した心理療法といえるのかもしれない。だとしたら、それはどのように実践されるのか、自己組織化の水準によっても、治療構造や期間が変わってくるのではないでしょうか?
③説明モデルが無いと学ぶ人は苦しい
とはいえ、否定命題によって、〇〇でなく、〇〇でなく、〇〇でない心理療法は、純粋主義ではない、生成モデル的(ある意味、これは河合隼雄『心理療法序説』の自然モデルと考えられる)なもので、心理療法の理論の概観を理解し、実際の心理療法の難しさを体験している臨床家には工夫できるけれど、知識や経験を身につけている最中の臨床家にとっては、難しさがあるようにもみえます。この難しさをどのようにすればよいのでしょう?
(肯定的な)批判の洗い出し
①仏教思想とドゥルーズ(『差異と反復』)
→自然モデル(仏教思想)と発生モデル(後期ドゥルーズの自然哲学とコスモロジー)
→西洋の自己と日本の自己、河合隼雄の中空構造、井筒俊彦の分節化、坂部恵の〈ふるまい〉
②心理療法と自己組織(主体)化の水準
→技法群の整理と適応、評価基準(心理療法のアウトカム)
③学びと習いの問題
→日本流の心理療法からは、教育と説明モデルの問題、養成と権威の問題、雇用と待遇の問題、という臨床家が置かれた三つの困難な問題が考えられます。しかし、これらの議題は『個人心理療法再考』で論じられている議題を超えている為、本題とは一旦切り離して検討した方が良いでしょう。
検討すべき項目の整理
1. 河合隼雄の中空構造(河合隼雄『中空構造日本の深層』中公文庫、を参照)と吉本隆明の共同幻想論(菅野寛明『日本の哲学 再発見 吉本隆明 詩人の叡智』講談社、を参照)
2. 河合隼雄の自然(じねん)モデル(河合隼雄『心理療法序説』岩波書店、を参照)
3. 井筒俊彦の分節化と華厳経(井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を索めて』岩波書店、を参照)
4. 頼住光子の道元モデル(頼住光子『正法眼蔵入門』角川ソフィア文庫、を参照)
5. 坂部恵の〈ふるまい〉と〈かたり〉(坂部恵『ペルソナの詩学 かたり ふるまい こころ』岩波書店、を参照)
6. 68年までのドゥルーズ(超越論的経験論)と68年以降のドゥルーズ(自然哲学とコスモロジー)、小林卓也『ドゥルーズの自然哲学 断絶と変遷』法政大学出版局、小林卓也・講演「脱人間化から非人間主義へ ー ドゥルーズの自然哲学概説」、を参照)
7. 宇野邦一の日本の生成変化の解釈に対する指摘(宇野邦一『ドゥルーズ 群れと結晶』河出書房新社、を参照)
8. ドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』とジャン・ウリの制度精神療法(ドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』河出書房新社)→エコロジー的な視点、地理学、歴史学だけでなく地質学(言語学)や系譜学(展開)として捉える(ニーチェやフーコーの仕事)。
9. 日本の哲学・思想との再接続(檜垣立哉『日本哲学原論序説 拡散する京都学派』人文書院、を参照)
補足
①説明モデルについて
説明モデルが無い事の功罪を考えると、説明モデルがある事の功罪もまた考えなくてはならない事に気づきました。そして、説明モデルとは自身の認識に関係しているものと考えられる。本来の説明モデルは、外部の事象を論理化したものを、内部に理論化したものと考えるならば、説明モデルは与えられるものというより、各自で形成していくものとも考えられます。つまり、説明モデルが無いという、説明モデルもありえるのかもしれません。しかし、初学者の基本的なガイドラインとしての説明モデルが必要というのも、またひとつの考えであると言えそうです。
繰り返しになりますが、説明モデルが無い事による功罪を考えると、説明モデルがある事による功罪も考える必要もあるでしょう。そして、時代の流れとしては説明モデルが求められるでしょうが、絶対的な本質を中心に置かないという日本流心理療法の真価があるとしたら、具体的な説明モデルを置かない事もまたひとつの説明モデルかもしれません。それは、外的な事象から、今、ここで起きている事を論理化すると同時に、自分自身の内的に起こる思考や振る舞いを論理化することこそが、説明モデルといえるのかもしれません。そして、『個人心理療法再考』では、日本流心理療法の真価は市場原理との相容れなさにあるのではとあります。以下、重要な箇所を引用します。
引用③
ですが、こと日本龍心理療法においては、その価値は市場原理との相容れなさにこそあるのではないかと私は考えます。
(中略)
しかし、当然ながら市場原理は人の文化形態のひとつにすぎません。そして、たとえば哲学や宗教学がときに市場原理や社会的・政治的文脈と交わりながらも、それ独自の道筋を見失うことなく発展してきたように、臨床心理学や心理臨床学もまた本来そのような文化体系であると私は思います。
このような本を執筆しておいて卓袱台返しをしている感じもしますが、私は心理療法や心理的支援の射程は市場原理をはるかに超えていると考えています。この営みは「サービス」や「ユーザー」という言葉で表される世界を超えた展望をそなえています。日本流心理療法の輪郭づけられなさは、ひとつの原理では語りえない人間の複雑さとその多様性を受け取る容器として機能しているのではないでしょうか。
引用文献
上田勝久(2023)『個人心理療法再考』金剛出版 pp. 199-200 より引用
引用③の最後の一文、〈日本流心理療法の輪郭づけられなさは、ひとつの原理では語りえない人間の複雑さとその多様性を受け取る容器として機能しているのではないでしょうか。〉にこそ、上田さんが考える日本流心理療法の真価があるのではないでしょうか。ちなみに、システムズアプローチでは、複雑で多様な来談者と家族に対して常に柔軟に応答できるように、何時でも修正可能なケースフォーミュレーションが必要と考えられています。
②ドゥルーズではない理論について
仏教思想とドゥルーズでないやり方として、東浩紀さんの「動物化するポストモダン」の物語論(fig 2)が援用できると考えられます。
↓網状言論Fー動物化するオタク系文化
TINAMIX
東さんは後に、『動物化するポストモダン』を書かれていて、これは物語論としても読むことができそうです。
③治療構造論との違い
栗原和彦『臨床家のための実践的治療構造論』金剛出版、では、実践での治療構造論の具体的な活用法が論じられています。『個人心理療法再考』では心理療法の構造ではなく機能に焦点を当てられています。
④神田橋條治先生のコツシリーズ
『個人心理療法再考』の巻末には、神田橋先生の引用もいくつか出てきます。神田橋先生のコツシリーズの具体的活用法としても読む事ができそうです。
おわりに
ひとまず、本記事では検討すべき項目を整理したところで終わりたいと思います。何度か加筆修正しつつ、いずれまとまった文章になればと考えています。お付き合いありがとうございました。