暴力を振るったものを許すことが出来なくても、自分自身がその暴力から解放されること、この世界で安寧を感じられることは赦して欲しい。それは、赦すことも、回復することも、自分自身が選べること、自分自身が選べないことと選べることを見極められること、暴力を振るったものよりも、暴力そのもの理不尽さや脅威によってつけられた痕跡から自由になれることなのかもしれない。私たちは、自らの出自を選びとることは出来ないが、自分のことを大切にしてくれるものと繋がることは選べるのだから。
と、書いてみたもの、振るわれた暴力を赦すこと、加害者を許して無罪放免にするということが書きたいのではない。むしろ、加害者のことや振るわれた暴力を許せなくても、自分自身のことを赦して欲しいということから、赦すことについて書きたいというのが、私が赦すことについて書こうとする動機になっている。そして、赦すといっても、振るわれた暴力は様々である。そして、戦争、貧困、病気、災害も暴力である。また、暴力に遭遇した人の体験の仕方も様々である。だから、赦すことが大事だから赦しましょう、なんてことを言いたい訳ではない。赦すことも、回復することも、その人が選択できなければ、それ自体が暴力になってしまう。また、暴力に遭遇した人が、暴力について語ることは、相当に苦しい体験である。こんなことを書くこと自体がおこがましく、言われた方は不快に思われるかもしれない。
証言すること、惨めさ、偽証してしまう恐れ、私秘性、親密性、ベルサーニ、セラピー、暴力の再演、エナクメント、力の勾配の不均等、守秘義務、セラピストの説明責任、合意形成、心理検査、知能、偏差、構成概念と仮説、中立性、異議申し立て、自分でセラピーの進展を決める権利…。
暴力では無いやり方で他者と結びつくこと、赦すこと自体を棄却すること、忘れられること、もはや関係ないこと。それは、関係があるかもしれないし、関係がないことなのかもしれない。そう、暴力による痕跡は、私たちを阻害する。痕跡のことを思い出せないのに、痕跡のことを忘れられない、身体につけらた痕跡の記憶が言葉になりきれず、その痕跡はフラッシュバックや希死念慮となって呼び覚まされる。そして、コントロール不能な自分を失ってしまう感覚は、自分が現実に応答できる能力に不信感を抱き、自己批判に向かってしまう。そのやり方は、自分が過去に扱われた方法に似ている。無力感、恥、怒り、無関心、孤立、絶望、世界の底が抜ける体験、沈黙、恐怖。そうした、折り込まれてしまった暴力の内在性、そうしたことから解放され、赦されることをどのように書くことができるのかだろうか?