アイデンティティと同一性

 アイデンティティは、安心と不安の振り子を行きつ戻りつしながら、恐怖、傷つきや恥の体験を濾過し、出来事としての体験を自らの経験として包み込みながら螺旋的に展開していく。そうだとしたら、アイデンティティは揺らぎそのもので、非アイデンティティ(不連続)もアイデンティティ(連続)といえらのかもしれない。このように考えてみると、アイデンティティという連続性の"切断"が、アイデンティティと同一性を変えてしまう可能性が考えられる。つまり、"切断"が、アイデンティティという揺らぎのある、ひとつのまとまりを変えられる機会であるといえる。

 切断された連続は間や余白を持つ、揺らぎが持っていたこれまでのリズムが中断され、これまでの、その場、その時といった文脈からなる揺らぎとは異なる、新たな揺らぎが間や余白から動きだす。こうした揺らぎを認めるなら、アイデンティティや同一性は、固定されたものやはっきりと割り切れるものとして捉えられず、その場、その時といった文脈によって変わっていくものとして捉えられるだろう。変化しない、固定された属性、そうした考えからのアイデンティティや同一性というものは、実際には、私たち個人が望んだものではなく、集団や主権といった私たちの社会から、ある種の管理される単位として望まれたあり方が主体と呼ばれるものなのかもしれない。

 私たちは、外界に直接触れることはできず、膜のようなものを通して外界を知覚している。それは、内に外に折り込まれた襞のようでもあり、その膜自体が知覚する器官であり、私と外界を隔てる境界のようなものである。こうした外界から隔てられた様態でもって、私たちはそれぞれに存在している。そこでは、あらゆる事物が交通する。私たちは、閉ざされているがゆえに交通するインターチェンジのように働き、内と外の二重性や、事物と観念の反転といった矛盾を抱えながら、説明し、展開するひとまとまりの膜や襞のようである。

 こうした膜や襞に潜在するものは、何かしらの傾向をもっている。それは運動と静止、拡張と収縮、快感と不快、興奮と沈静、こうした内的な”欲動”の充足と、何かしらの外界の事物に向けれた関心、その外界の事物を対象とした内的な表象、自分自身や他の誰かの表象に対する関心といった”欲望”の満足に向かっていく。しかし、本来の”欲動”の充足や幸福な”欲望”の満足というのは、傾向がどのように発揮されるか、外界の環境、人間であれば社会との折り合いといったことが必要になる。それを私たちは成長や老熟と呼ぶのかもしれない。ちなみに、ここでの"欲動"は生物的な欲求であり、"欲望"は他者を介する社会的な欲求であり、幸福は"徳"と言い換えてもよいかもしれない。そして、"欲動"と"欲望"は入り混ざっているだろう。ここでも、私たちは二重性と反転といった矛盾を抱えながら、自らを、説明と展開によって表現している。

 こうした矛盾から、自分について説明すればするほど無限遡行していく自己言及的なパラドクス、文脈に展開するために文脈を定義しようとすればするほど同じ文脈を再生産してしまうパラドクスに陥ってしまうのかもしれない。こうしたパラドクスは、時に私たちを苦しめ、人生を困難なものにする。しかし、パラドクスは、拘束的、再生産的に働くこともあれば、それが外界に関する第一種の認識、認識の関係に関する第二種の認識を、関係の関係に関する第三種の認識まで運んでくれる、私たちの生に対する贈与として働くこともあるように思う。それは、おそらく、私たちに新らたなまとまりを与えてくれるだろう。新しい揺らぎとリズム、二重性と反転、そしてパラドクスと贈与が、世界に鳴り響いている。