主体性と行為者性と主観的体験

 哲学の本を読んでいると、なんだか主体性の賦活という言葉を安易に使えなくなってしまう。回復の主体はする側からされる側に移行⇄融合しながら、される側がする側になって自らの自然を回復、あるいは新たな自然を学習していくという過程については、今も同じ考え方をしている。

 意識(定点)と無意識(流動)は、ボトムアップ帰納的)とトップダウン(演繹的)な推論、あるいは知覚と運動、気づきと注意という二重の系(システム)で動いているのかもしれない。また、注意には、〈張りつき〉と〈転がりや〉、気づきには〈拡散〉と〈収縮〉という特徴があるようにみえる。主体とは定点としての意識のことなんだろうか?

 生体の運動には不随意と随意の運動が、感覚には現在起きている純粋な感覚と過去の記憶による感覚があり、運動の為に感覚による予測が常にされている。あたかも意識が自己決定しているようにみえるが、実際にはフィードバックとレギュレーション(ベイトソンのライフルと散弾銃の例え)によって予測誤差を最小限にしたものを知覚しているだけかもしれない?

 主体性は行為者性ともいえる。大統一理論に基づくなら、意識は知覚・運動・注意による予測と感覚入力を誤差修正する類推システムといえるのか?知覚と運動の二重作動と、注意という分配、情動というモニタリングの機能があり、意識は行為の目的を選択している。こうしたものを主体性と呼んでいる?

 サイバネティクスのような情報処理として捉えるなら、意識は階層性によって生まれた特殊な状態、意識を意識する特異点みたいなものだろうか?そこに内的表象を記号として扱う言語や文字による個体外部の集団の記憶が、個体の記憶のネットワークに影響し、その中で私と呼ばれる心や精神が発達したとか?

 とはいえ、目的は原因と結果を反転させる所があり、意識自体も報さらされる側でありながら選択する側だと誤謬しているのかもしれない。そうなると自由意志や私の欲望というのは疑いがかけられる。実は、不自由や誰かの欲望の為に動いている事を、自由意志や私の欲望と信じ込んでいるだけかもしれない?