ハイデガーは何を隠したのか?

 永遠なるテクストがあるのだろうか?と考えれば考えるほど、否定の応答と、如何にその見方が人間中心的かということしか浮かんでこない。
 むしろ、ハイデガーは書かれたテクストより、テクストの中に書かなかったものの方が意味があるのかもしれない。神学との距離とか自分自身の信仰についてとか、その辺りにヒントがありそう。文章の巧みさ、引用のセンスなどに惹かれてしまうけれど、哲学の中に彼が何を隠したかの方が気になる。
 古代の人は存在することの不思議を、中世の人は神の超越を、近世の人は自己意識を考えた。マルクスニーチェは西欧史観の行き詰まりを指摘し、ハイデガーはテクノロジーを批判したが、それ以上に科学的言説・世界経済・領域国家という世界システムはあらゆるものを分断・依存・否認・不安定化させる。
 先祖還りを恐れるかのごとく、信仰や宗教、美や善、自然や歴史に由来することを忌みし、属性に分別するような言葉が現在では好まれている。非科学的で実証不可能なものより、何時でも複製可能なものが好まれる。ハイデガーが隠したように、私たち自身が隠したものとは何だったのだろうか?
 消費されないもの、消費されても残る強度を持つものを永遠というのか、消費されることを前提とするなら、それを前提とする社会がある訳で、普遍的なテクストがあるのかが適切な問いかもしれない。しかし、人の心が永遠を求めるなら、永遠に残るテクストがあって欲しいという希求こそが、その前提となるのかもしれない。