ヘーゲルの歴史観(段階)、マルクスの唯物論(構造)、ニーチェの系譜学(展開)があり、西洋史の同一性ではないものをとらえようとするベンヤミンやアドルノ、西洋史の批判としてハイデガーやアーレントが現れて、それ自体もロゴス中心主義だとデリダが謂い、霊性とともに思弁的実在論が現れたのだろうか。
日本の思想史には、忘却による切断(海路の発展と海外からの影響)、権威的な知(もしくは宗教的な法や一神教)を崇める一方でそれを忌み嫌う矛盾、欲望によって経済的な活動に没頭する否認、によって思想史観の同一性が空洞化する一方で、空洞化すること自体が同一性になっている文化的な特徴があるようにみえる。
状況に合わせて振る舞うことをしてきたなかで、理性のような倫理や道徳、同一性を持ったアイデンティティ(三位一体教会)よりも、相手を真似る(まねる/まなぶ)こと、我を忘れて振る舞う(ふり/まい)ことが重視されてきた。言葉を、仮面(おもて/うら)の虚実皮膜の境界として使ってきたのだろうか。