〈運命〉と〈贈与〉

 私とは過去と未来の切断面として現れた「邂逅」の場である。どうしようもない偶然と、この私である必然に、苦悩し、抗い、受け入れながら、「邂逅」の場で生成と消滅のあいだで賽の一振りに賭(命懸)ける。それは、世界への信頼、あるいは「愛」なのかもしれません。
 現代は、予測と制御/再現性の可用性によって〈今、ここで〉という瞬間に賭けざるえない生命の〈運命〉、あるいは偶然と必然の反転からなる世界の裏(ベンヤミンデリダ的な未来)を隠蔽されている。〈運命〉は決定論ではない、そこには〈媚態〉〈意気地〉〈諦観〉という人間的な実存のあがきがある。
 こうしたことは、檜垣立哉先生の文章(「賭ける―人生の修練としての賭け」『越える・超える』に収録)で述べられていて、偶然と必然や生と死の反転は、山内志朗先生のパラドクスと贈与に関する文章(「人は死んだらどうなるか?」「現代思想」のビッククエスチョン特集)とも重なる議論だと思います。