〈私〉の論理学

 「魂が宿る」、「魂が抜けた」という表現はあるのに「意識が宿る」、「意識が抜けた」という表現は違和感を感じてしまう。それは、意識が存在することは当然で、宿ったり、抜けたりするものではない、という感覚があるからだろうか。それとも、意識は常に同一、あるいは単一のもので、意識を意識している存在を私と呼び、他でもない私という存在は一人しかいないからだろうか。

 「魂」という言葉は、どこか割り切れないところがある。どことなく境界が曖昧だったり、ふわふわと浮遊して出たり入ったりしているような語感があるので、宿ったり、抜けたりするのには違和感がない。中国には「魂魄」という言葉があって、「魂」は陽・天・精神を意味し、「魄」は陰・地・肉体を意味するらしい。また、西洋ではプネウマ=霊、プシュケー=魂という言葉があり、プネウマは息吹、プシュケーは個性という意味もあるらしい。とにかく、これらの言葉から、生命だったり、人間だったりの論理のようなものを感じてしまう。そして、ゾーエーとビオスや、普遍性と個別性という言葉を連想してしまう。

 意識は、流れや滞りのなかの特異点のようなもので、意識は実在しないとか、心は概念で存在しないとか、私は現象だから私自体を把握できないとか言い出したら、それを聞いた人はどのように思うのだろうか。人間味が無いとか、心無いとか、ニヒリズム虚無主義)だとか言われたり、思われたりしてしまうのだろうか。意識が、同一や単一のものでなく、〈今〉=〈私〉は、まさに流れつつあるもの(「生・滅・生・滅・生・滅……」)の澱みや、揺らぎのようなもので、その特異点として、存在の二重性や矛盾を包摂しながら、展開/消尽していく裂け目(切断面)のようなものではないだろうか。

 意識を認識するもの、心を構成するもの、精神を把握するもの、それはいったいなんだろうか。根源的な時間は順序しか無いものかもしれないが、私にとって本来的なのは、順序だけでなく、過去、現在、未来という私からみた時制がある時間だ。私があるということは、〈今〉=〈私〉という特異点が生じていることだとしたら、私は実存するといえるのだろうか。「意識を失う」、「意識が戻る」という表現からは、意識が接続したり切断したりすることや、アクセスやシャットダウンという言葉を連想してしまう。それは、ネットワーク上(この場所にはおそらく非−同一/非−単一的な離接的綜合も含めた)に現れる特異点であり、〈今〉=〈私〉こそがネットワークを接続したり、切断したりする論理(=連結)なのかもしれない。