〈土地〉と〈政治〉と〈友愛〉の系譜学

 ポリス市民は、〈土地〉(そこで生まれるもの、食物や物質だけでなく歴史や言語といった歴史学や地質学のようなものも含めて)と〈民主制〉(これは政治的なものだけなくアーレントのいう活動のようなものではと考えています、しかしポリスには奴隷制度や女性に市民権がない問題もあります、本文の議題を考える時に市民ではない立場からも思考することは重要だと考えられます)と〈友愛〉を大切にしていたようです。ドゥルーズはこの三つを哲学を考える上で大切なものだと考えていました。この三つの要素の関係から、人間の社会がどのように展開していったのかを考えてみるのがよいのではと考えています。

 日本的なホモソーシャル(男性社会独自の〈絆=傷つき〉という連想が浮かびます、そこには〈傷の反転〉という現象や保護の名のもとに搾取や支配という暴力が生まれてしまう構造があるのでは?)とは違うものなんだろうか。はたして、どういう社会だったのか反省の鍵として気になるところです。

 〈友愛〉(好敵手や競争相手も含む)を結びつきと考えるなら、なぜ人は集まり、どうして社会の中で生きる(でしか生きられない)のか、それを社会の中からでなく、いったん外側へ出て(十牛図の過程のように)、外側から考えるとはどういうことなんだろうか(そういう文脈では、中井久夫は敢えて内側に入って医局制度を内側から批判し、ウリやガタリは制度という社会の秩序を生態的に考えたのかもしれません)と思います。中井久夫に影響を与えたサリヴァンは人間の精神や社会という現象をシステムとして捉えようとしていたのかもしれません。

 〈土地〉と〈民主制〉と〈友愛〉(女性の場合は連帯になるのでしょうか?同性愛はどうなるでしょうか?議論すべきことは沢山ありそうです)の三つで考えていくと、ドゥルーズサリヴァンに繋がっていきます。私人としてのドゥルーズは仲間との友情を大切にしたし、サリヴァンは精神医学に政治的にも貢献した(DSMやWHOへの貢献)。そして、同性同士の〈絆=傷つき〉のこと。ぼんやりとだけれど、先述の三つの要素は社会の中で生きる人間を考える鍵になると考えられそうです。

 このように考えていくと、異性同士(あるいは性別の関係のない同士)の恋愛や性愛とは異なるパートナーシップというのは、その先の議論に関係してくるのかもしれません。そのうえで、人間同士の絆(=傷つき)とは、なんだろうというテーマに回収されていきそうです。ふと、岩田靖夫『神なき時代の神』にあったレヴィナスの顔や他者と死の話題、デリダの『法と力』と『赦すこと』、梅木達郎『放浪文学論』が浮かびます。

 〈絆=傷つき〉と〈赦すこと〉、あるいは普遍的な正義が及ばない、普遍の手前の、個人的な体験のまま思考(アーレントのいう思考や対話、他の立場に立って複数性を架橋する意味で)するということ。それは自発や協調、和解や歓待に関するのかもしれません。人間は他者を必要とし、誰かと言葉を交わし、活動します。

 その活動は、〈土地〉と〈民主制〉と〈友愛〉という時間や場所、歴史と出来事と雰囲気で起きます。それは〈領土(線を引くこと)〉と〈概念的人物(発明すべきこと)〉と〈概念(創造すべきこと)〉であり、〈境界を引くこと〉と〈違いを吟味すること〉と〈違いを架橋すること〉という和解の過程なのかもしれません。

 そして、ドゥルーズフーコーの友情(そこにはドゥルーズが使う「闘争」という言葉や嫉妬もあったのかもしれないし、ギリシア哲学は地理的思想のぶつかり合いにも見える)と、パレスチナ(この地名からは、二人のパレスチナに関する政治的活動や発言の違いと、ドゥルーズがイツハク・ラビンと同日に亡くなった事実、アラファトのその後、現在のパレスチナを思い浮かべます)のこと。それは、歴史と主体を、解体したフーコー換骨奪胎したドゥルーズという二人の闘争であり、そこには〈土地〉と〈民主制〉と〈友愛〉の系譜学あったのかもしれません。

 ちなみに、ここでいう〈土地〉は土地から生まれるものであり(そこには〈地質学=言語学〉も含まれるのでしょう)、〈民主制=政治〉は人の集まりから生まれるものであり、〈友愛〉は人との関係から生まれるものであり、系譜学は時間とともに展開していくものを扱うと言えます。ちなみに、〈民主制=政治〉からは、祭事、擬制共同幻想吉本隆明)、を連想しますが、ひとまず人の集まりから生まれるものとしておきます。あらゆる情報とモノが世界中に行き渡った現在の社会(資本主義のような見えない秩序)とは何かを考えるときに〈土地〉と〈政治〉と〈友愛〉が大切になるかもしれません。