〈技〉を育む

 技術というものは、普及すれば当たり前になって消えていく、そして慣習や制度に取り込まれ、通例として執り行われる。しかし、単なる技術ではなく匠の〈技〉というのは、相手の、自分の資質を伸ばしたり、組み合わせたり、そうした工夫であって、制度化できないもののように思える。

 そう考えていくと、自分の実践を〈技〉化するというのは、〈目利き〉と〈見立て〉と〈手仕事〉の過程の繰り返し、しかしそれは螺旋状に状況を展開していく。そのためには〈技〉を繰り出す、積み重ねられた知識や経験、知覚や運動のイメージからなる〈体力〉が必要になると考えられる。

 そうした実践に対する態度や思考をとりまとめるものを持ちつつも、それさえも時には取り下げたり、修正したりする柔軟さが必要で、それは相手と関わることで自分自身も変わってしまうことを受け容れる〈勇気〉のようなものかもしれません。〈技〉はあるか、〈体力〉はあるか、〈勇気〉はあるか。

 変化というのは、AがBになることではなく、AかA‘になったり、AのなかのBが減ったり増えたり、AからBへ、BからAへと行き来できるようになることではと思う。そのものが持っている気質を変えるというよりも、凸凹した能力をなだらかにしたり、得意を伸ばしたり、苦手を克服するようなものを育てたりすることではないだろうか。

 だから、基本はそのものが既に持っている能力を見極めて、それが能いかたちで発揮されるように関わっていくことが前提となる。また、新しく学習するためには、これまでの学習パターンが邪魔をすることがある。そのためには学習を解体する必要があるし、解体された後に相手の能力が発揮されるような状況を整える必要もある。そして、それはどちらを選んでも相手の状態がよくなる方へ方向づけらるものである。学習の主体は相手であるし、変化するのも相手である。相手を変えようとすることは害になることが多い。相手が変われるような状況を整えることが基本となる。

 そして、問題は小分けにして、段階的に進んでいくことが大切である。小さな変化(学習)が積み重なり、大きな変化となる。はじめに述べたようにいきなり別のものに変化することは難しい。既にある能力を見極め、それに似た能力(相称性)を育てるのか、それと対する能力(相補性)を育てるのか見立てた上で、どのような関わり方をして、それがどんな変化を起こすのか予測をしながら、段階的に状況を整えていくのが基本となる。そして、予測をしながらも、予測しなかったような偶発性や例外も取り込みながら、学習をリフォームしていくこととなる。対話の中の小さな変化(潜在性 virtualite)の機微を読み解きながら、その機微を育てたり、実際の生活構造の中で取り込まれ、生活構造がリフレーミングされるようなことが望ましい。

 対話で相手を変えるということは、ある種の洗脳や支配になりかねない。変化の主導権は相手にあり、相手が持っている本来のニーズ(無意識の思考と意識の思考が一致した)に合わせて変化は起こるものだと考えられる。そのためにはニーズ自体も段階的だったり、時には拡大したり、収縮したりしながら、現実的な可能性に沿っていくことも必要となる。そうした時には、対話の中で、問題とされていることの再定義/再構成をしながら、学習の背景(コンテクスト)をニーズに沿ったものに変形していくことが必要となる。ニーズと対話の文脈(学習の背景や問題の状況)を時には変形させながら、相手の生活の負担が減ったり、心身の苦しみが楽になるような、どうしたら相手の役に立つのかを考え抜いた上で、それを相手と共有し、協働しながらデザインしていく能力が必要となる。