守破離は、グレゴリー・ベイトソンの学習理論でいうならば、守が学習Ⅰ、破が学習Ⅱ、離が学習Ⅲにあたると考えられそうです。基本は学習Ⅰと学習Ⅱの繰り返しで、その中で稀に学習Ⅲ(システムそのものの脱学習と再学習)が起こるくらいのものだと考えます。学習Ⅲは、精神的な危機を伴うような体験になりえるでしょう。
ちなみに、ゼロ学習は、生理的な反応のようや生まれ持ったもの。学習Ⅰは刺激と反応の関係、ルールについてのもの。学習Ⅱは、刺激と反応の状況や文脈(コンテクスト)についてのもの。学習Ⅲは、学習しているシステムそのものの解体と創発についてもの。ということができそうです。
私自身が指摘されたのは「新しいことを学ぶ時は、これまでのことを捨てなければ何も身につかない」という事です。誰しもこれまでの学習といえる枠組み(認識論)を持っていて、それを通しての世界を理解しています。それを捨てなければ、新しい学習も過去の学習からみた下位の学習になってしまうからです。
まったく新しく学習するにはこれまでの学習や枠組みを解体する(脱学習)必要があります。そこには自己のようなひとまとまりのシステムの危機も伴う体験になると思います。学習とは、知識や情報を入力するだけでなく、知覚と運動、刺激と反応、要求と関係のパターンが成立することだと考えられます。
守破離は元々芸事の言葉ですが、現代では創作の話として受け取られているのかもしれません。その面がある一方で、守があってこその型破りだし、守がなければ型無しになってしまう面もある。破は守の世界から飛び出し、型通りではなく、いのちの持っている性や癖を生かす実践の模索の段階ではと考えています。そして、離は、守にも、破にもしばられることなく、自分の性や癖も知った上で、相手の性や癖を生かすことができることをいうのではないでしょうか。
芸事や学問などの、「口伝」というのは師弟関係の中だけの〈伝承〉だと思い込んでいましたが、実際はその〈文化〉自体を〈継承〉することなんだと考えたら、「口伝」の重みが分かるような気がしました。また、こうした守破離の世界のような修行の過程で、傷つきや恥の体験が生まれることも多く、その辺りは今後検討してみる必要があると考えています。