共感について思うこと

 とかく何かと同じであることが良しとされ、同じように感じていることが求められているように感じています。だからなのか、共感という言葉が安売りされて、多様性という言葉のように本来の意味とは異なって使われているように感じます。そして、このようなことを感じる人は他にもいるようで、共感という言葉の使われ方に違和感や疑問を呈する人もいるようです。

 共感という言葉は、他人と同じように感じること、つまり同じ考えや感情でいることで、同感と同じニュアンスで使われているようにみえます。この、同じように感じる、とはどういうことなんだでしょうか。同じと分かることは、自分の感じていることが分かっていて、かつ他人の感じていることも分かり、さらにその両者が同じであることが分かるというという過程を踏んでいます。さらに、感じというのは常に変化しており、身体的な知覚、感情的な反応、人格的な思考、人間関係や社会活動での交流、その場の雰囲気、さまざまな層からなる感じがあると考えられます。このように考えてみると共感とは体験の過程であり、いくつもの感じの層からなる複雑なことだと言えます。

 心の臨床家の中には、こうしたことを他人の靴を履くというメタファーで表現する人がいます。他人の靴を履くとは、他人の体験している世界の感覚に、自らの足を突っ込んでその世界を感じてみることです。そこには肌に何かが触れる質感や他人の温度と湿度があります、そして心地よいとか不快であるとか、その世界に対する評価や判断というものもあるでしょう。しかし、他人の靴を履けたとしても、その人自身になることはできません。あくまで、自分が他人の靴を履いてみた感覚です。ですから、あの人はこんな感覚で靴を履いていたのか、世界をこのように感じていたのか推測できる程度に限られます。

 ですから、私たちは他者の世界に関心をもって靴を履いてみます。時には、自分の靴の履き心地と比べ、何が違うのか吟味します。そうすると、同じだと思っていたけれど異なることや、異なると思っていたけれど同じこと、分かったと思っていたけれどまだ分からないことなど、自分の靴と他人の靴の履き心地を行き来しながら、他者の世界を味わってみることができます。それは体験の過程であり、いくつもの感じの層からなるもので、生理学的・身体的・意識的・人格的・社会的といった、いくつもの水準の内と外の境界の感覚であり、その境界で起きていることに対する快と不快、感情、気分、漠然とした雰囲気からなる世界の感じ方なのかもしれません。

 このように考えてみると、本来、共感が指そうしている感じというのは不確定で流動的な感覚であり、言葉で言明できない潜在的な感覚だと言えます。ですから、「言葉には出来ないけれど、何かあなたと同じようなものを感じているように、今私は感じました」というような矛盾をはらんだ感覚も起こるのかもしれません。つまり、同じであることも、異なることもどちらも味わいながら、それを吟味していくことで、他者のことや自分のことが分かっていく過程だと考えられます。それはお互いに変わってしまう可能性を含んでいて、その感覚にも開かれながら自分を誤魔化したり、拒絶することなく、認めて、受け入れていく体験なのかもしれません。おそらく、そこは他者と自己という存在に対する思いやりという肯定的な関心があるように思います。

 心理療法家のカール・ロジャーズは、カウンセリングと心理療法では、共感的理解、無条件の肯定的関心、自己一致という三つの態度が必要であり、六つの必要条件があると論じています。私の理解では、共感的理解はこれまで述べてきたことです。そして、無条件の肯定的関心というのは、ある価値観にしたがって他者に関心を向けるのではなく、その人の存在そのものに肯定的な関心を向けることです。最後に、自己一致とは、自分自身が、今、ここでの体験に開かれて、体験している感じと私自身の在り方が重なり合ってひとりの人間として機能している状態です。このように、共感とは人間が人間を理解していこうとする営為の一つの側面であると考えらます。他者であれ、自己であれ、人間を理解していくことは難しく、共感ひとつとっても一筋縄にいかない所がありますが、他者と自分を行き来することでひろがる世界があるように思います。

 

参考資料(筆者作成、リンク先から資料がダウンロードできます)

1. 傾聴研修資料

2.フォーカシング・ガイド