対話について思うこと③

はじめに

 ③では、オープンダイアローグで大切にされている「本人のいない所でその人の話をしない」ということから、それが単なるルールではなく、対等な関係で話し合うことや、安全に話せる場所についての知恵だということを書いてみました。もちろん、「本人のいない所でその人の話をしない」というのも、あくまで対話の知恵のひとつがどのように生まれたのかという一例をあげたのであって、これを教条的に守ればよいという訳ではありません。何の為にルールができて、それはどのような営みから生まれたものなのか、それを考えてみることで対話の知恵のような前提や条件が理解できるのでは、ということを書きたかったのです。今回は、立場の違いを受け入れることについて書いてみたいと思います。

家族療法の事例の検討から

 家族療法では、個人をある状況に置かれた人の立場や役割から、その人がどのように問題を捉えて、どのように振る舞っているのかという視点から理解しようとします。セラピストを含めて個人は、その人の立場や役割といった視点から、起きている出来事を切り取ったり、意味づけながら現実を捉えていると考えます。そして家族療法のある学派では、事例を検討する時に発言者は「実際に〇〇ということが起きていて、それを〇〇という視点からみると、□□ということが考えられます」というような、ひとつの仮説として発言すべきだという考えがあります。こうしたセラピストが持っている仮説も、あくまで個人の捉え方であってセラピストの立場からはそのようにみえると考えるからです。また、ポストモダンの家族療法と呼ばれるコラボレィティヴアプローチの症例検討法の一つに、アンダーソンの「あたかも」症例検討法というものがあります※1。これは、事例を提出しているセラピストと家族や関係者以外の観察者があたかもその事例の中の家族の立場になったつもりで聞いて、それを検討者達にフィードバックするというものです。

 繰り返しになりますが、自分の立場からこのように見えるという言い回しや、誰かの立場になって思考してみるというのは、単なるルールでそれを教条的に守らなくてはいけないと言いたい訳ではありません。そこに対話が成立する前提や条件があるのではと考えているのです。ですから、私たちが普段使っている言葉と思考についての話題に脱線しながら、立場の違いについてもう少し考えてみたいと思います。私たちは普段、言葉を使って思考しているつもりですが、考え方を変えてみると言葉に思考させられているとみることもできます。これはいったいどういうことなんでしょうか。たとえば、日本語を使う私たちが英語を学ぶ時には、まずは英語の主語を特定すること、5文型の構造、英語は日本語と意味の順番が異なること、それらにまつわるルールを理解しなくてはなりません。

 たとえば、日本語で[いつ][どこで][誰が][だれ・なに][する・ある]という意味の文章を、英語で表現すると[誰が][する・ある][だれ・なに][どこで][いつ]という順番になるなどの違いです※2。このように日本語と英語では言葉のルールや構造が異なり、それによって思考の仕方も異なってくると考えられるからです。そして、言葉自体が、視点、時間、結果を表現するルールや構造を持っていて、私たちの思考もそのルールや構造によって思考させられていると考えられるからです。また、言葉には主語と述語の関係があり、そこにはまるで原因と結果があるかのような思考を生み出していると考えることができます。たとえば「〇が□になる」のような文章では〇が原因で□が結果であるかのような「〇→□=原因→結果」と思考してしまうからです。このように私たちは、見えない言葉のルールや構造に基づいた思考を当たり前に使っています。

 しかし、実際の現象は複雑な関係によって成立しています。それを私の立場で切り取ったり、意味づけたりした言葉でやりとりしているに過ぎないともみれるのです。この世界で起きていることはもっと複雑で、〇という個体が□という結果になるのではなく、〇と△…etcというような複数個体同士の関係が□になっているとも考えられます。〇が△に働きかけ△が〇に反応した、あるいは△が〇に働きかけ〇が△に反応したというようなどちらも原因であり結果であるような相互に影響し合う出来事は視点によってその意味が異なります。しかし、私たちの日常では関係性から出来事を捉えるのは煩雑で言葉にするのは難しく、どうしても言葉のルールや構造に従わざるをえません。ですから、事例の検討をする時には「実際に〇〇ということが起きていて、それを△△という視点からみると、□□ということが考えられます」という一見回りくどいようにみえる言い方をわざわざ使うのです。言葉の使い方を変えることで、個体に原因があるという思考から離れて、実際に起きていることを関係から捉える思考へ移行しようと試みているのです。

 このように家族療法では、立場によって見え方が違ってくる、あるいは観察者の視点をどのように捉えるか、という問題意識が強くあります。そして、家族とかかわる家族療法のセラピストは、家族をひとつのシステムとして外部から観察する立場を取りながらも、実際にはセラピストが家族に加わり、家族とセラピストを含めたシステムの内部から観察する立場であるという二重性と矛盾の中でセラピーの実践をしているのです。そして、この立場の違いが差異を生み出してセラピーを展開していくと考えられます。

おわりに

 今回は、立場によって見え方が違ってくる、私たちは言葉のルールや構造に従って思考している、個体からの視点だけでなく関係からの視点も使って起きていることを捉えてみる、立場の違いが何かを生み出す、ということを書きたかったのですが、かなり回りくどい文章になってしまったかもしれません。予定では、立場の違いという話題から、対話をすることは辞書や地図を交換することに似ているようにみえる、そしてそれは対話の中でネットワークを形成し創発につながるという話題までたどり着くつもりでしたが長くなってしまったのでここで終わり、次の文章で書きたいと思います。

注釈

※1 高橋規子・小森康之『終末期と言葉 ナラティヴ/当事者』金剛出版 p.72、を参照しています。

※2 田中健一『世界が広がる英文読解』岩波ジュニア新書