感情論
感情とは、自らの状態を報せ、本来は自らが何を欲望しているのか、その為にどんな行動を取れるのかを吟味する為の閾値に働く信号のようなものであり、それは外界と内界を構成する膜や襞による快不快に起源を持つものかもしれない。感情自体の記憶はなく、感情は知覚や運動の記憶に伴って感じられる。その時に、どのように感情を体験するかで、経験のされ方ーただ過去になるのか、過去にならず身体に残るのか、未来を先取りするのか、忘れ去られるのかーが変わっていくのかもしれない。そこにはリズムと調整、安全と信頼関係がある。古代の人は魂の働きとしての感覚、つまりは保全の記憶に感情が伴う、あるいは魂の受動的な働きと考えていたようだが、次第に魂を身体から切り離し、感情を思考から切り離し、欲動を欲望から切り離していったようにもみえる。感情も判断するものであったのに、誤った判断であり制御すべきものとされた。だとしたら、それは魂の働きとしての閾値を充足させること、つまりは満足を知った上で節制された欲望を抱くのではなく、快をより多く不快をより少なくするという質の問題を量の問題として誤謬することが起きていないだろうか。あるいは、欲望を充足することを、不安を抱かないこととしてしまうような。私たちの持っている気質や性向を能く育てるのなら、魂の欲求部分である、感情と欲望がもつ認知と判断を習慣づけていくことといえるのかもしれない。それは選択に基づく行為に対する直観を働かせた論証の実践であり、または思慮を働かせることで、よい性向を形成していく徳であるといえるかもしれない。