分断される世界で

 人を助けるというと、心優しいけれど傷ついて困難な状態にある人を助けると思う場合が多いかもしれないけれど、社会の役割や仕事として人を助ける場合は、誰かを傷つけたり悪い事をしている人を助ける事もある。だから、好き嫌いではなく社会の制度として人を助ける仕組みが出来上がったと考えられる。


 例えば、世間で流布しているセルフケアの常識と専門家が学術的に共有している常識は、同じ常識でも全く異なる。そこで、どちらが正しいとか、どちらがどちらかを否定するような議論になると建設的にはならない。このような、世間で流布している言説と、専門家で共有されている言説の齟齬は増えている。


 少しまとめると、同じ人を助けるという行為でも、立場が違えば、共有している言説も異なる、全く異なる行為だと考えた方が良いのかもしれない。それは、標準化された医療のように手順(プロトコル)が決まっていたり、法律の判例のように蓄積された過去の事例があれば、ある程度は具体性や共通性があるのかもしれないが、人を助けるというと抽象度は高く手順も事例も千差万別になってしまう(※ここで、医療と法律を出したのは人を助ける仕事として古くからあり、そのシステムが他の領域より整っているからです)。


 少し付け加えると、人を助けるとは、何かが不足している所に必要な物や情報を差し出すとか、困っている人を知識や能力を持った人が一方向的な影響力で解決する事ではないと私は考えている。人を助けるとは、その人が自分で自分を助けらるようになる事であり、そこには関係性の中の自己実現も含まれる。


 もちろん、際限なく、どんな人も助けられた良いだろうと、私も思う。しかしながら、それは不可能だ。だからこそ、制度の中で、さまざまな限界がありながら、その中で最善を尽くすのが専門家だと思う。また、専門家が上位で、世間の人が下位だという捉え方も誤っていると思う。よいサービスを提供するにユーザーからのフィードバックが大切である。専門領域が閉じすぎないためにも、ユーザーからの声を拾い実践に活かすことも専門家には必要だと考えられる。分断ではなく対話を願う。