言葉の本性

 人間の精神にとっての現在が、過去と未来に分かれていくように、言葉の働きも、意味する働きと表現する働きに分かれていく。人間から生まれた言葉という道具は文字を生み、話すことと書くことに分かれていった。まるで、人間の精神の持つ本性を模倣するかのように。

 この何かに近づこうとする働きと、何かから離れていく働きを、架橋しようとする工夫もあったのだろう。何かを“かたろう”とする働きと、何かが“はなされる”ことで現れる働き。その二つの働きを架橋し、媒介する、伝達という行為が、さらに言葉や文字を氾濫させる。言葉や文字、行為と認識が行き来するなかで顕在するものも移りかわっていくのだろう。

 伝達される“もの”や“こと”は虚ろいやすいが、向けらる関心は人間の本性のように変わらないところがあるのかもしれない。人間から言葉が生まれ、言葉から文字が生まれ、文字から書物が生まれた。記憶は外に出て、外に出た記憶が、人間の記憶に働きかける。物は事物の内にあるのか、人間の精神の内にあるのか。それとも間にあるのか。すること、されること、その分かれが、転がり落ちようとすることへの抵抗なのだろうか。

 思考することだけでなく、聞き取ること、見て取れること、身体を媒介に読み取ること、それは表現することであり、それを擬えながら展開し、逸脱していく。操作すること、受け入れること。作ること、崩すこと。動くこと、住まうこと。言葉、文字、書物、記憶、自由、何処までも、何処までも、宇宙を掴もうとする赤子のように。