小さな祈りから

 言葉を蒔いて、芽が出るのを待つ。どれくらい待つのかは分からない、花が咲くかは分からない。途中で、枯れてしまうこともあるだろう。誰にも気づかれないかもしれない。それでも、いつかはと信じて、祈ることしかできない。何かを信じることとは、不確実で未だ現実に現れていないことが起こるのを前提に、それに向かっていくようなところがある。前提に適した注意が状況へ定位し、小さな行動が習慣になり、その過程が実践になる。筋立て、筋書き、過去の徴から、未来を読み解くとき、過去は未来を照らすものとなり、未来は過去を変えるものになるのかもしれない。
 自らの傾向、向かうもの、動くもの、表現すること。昼と夜、快と不快、緊張と弛緩、緊張と弛緩、安全と危険、あらゆる閾という隔たりが、膜、襞、壁、のように働く。系が界を、過程が形態をつくる。界が系を、境界が知覚と運動をつくる。多孔なものが浸透していく、流れ、動き、潜在的な傾向が、外界に顕在化する。適切な環境に応じて、種は目を覚まし、根と芽は現実化する。目覚めた種は、環境に自らの傾向を展開させていく。根は水を求め、芽は光を求める。自らの充足のために、現実に働きかけ、その働きかけから還ってくるものに応じて、自らの傾向を環境に調和させていく。
 祈りとは、とても現実的で、本来の充足に従ったものかもしれない。それは、虚実皮膜でありながら、潜在的かつ現実化されるものであり、卒啄同時であり、環境からの働きかけかつ自らの傾向の働きによって現実化されるものであり、現実化されたものによって展開されるものでもある。自らが何を期待して、どのような未来を希望し、また、何を後悔して、どのような不安を感じ、どのような前提、未来、祈りを信じているのか。花を咲かせるのでも、枯れゆく花を看取るでも、祈りとは現実的で、時に小さく忘れがちな習慣であり、本来の充足のための、灯台羅針盤になるようなものである。