よくあるシステムズアプローチやブリーフセラピーに対する誤解(私見)

①言葉の意味を変えることがリフレーミングではないし、前向きさを押しつけたり、安易に褒めることがコンプリメントではない。言葉の意味の世界から一旦離れて、目の前の事象の相互作用をよく観察し、実際に何が起きているかの理解を蓄積しなければリフレーミングにも、コンプリメントにもならない。実際に起きている小さな変化を、その人自身が自分が一方踏み出し、生活状況を再構成するような状況をしつらえるのがリフレーミングであり、実際にその人がしていること、持っている資質をよく観察しその事実を労うことがコンプリメントである。

②観察をするということは、言葉の意味の世界から一旦離れて、目の前の事象の相互作用に追従していく行為である。観察の仕方は、意識の集中と同じく一点に集中するものもあれば、全体に漂う集中もある。それは、一種の意識の没入状態で、トランス状態ともいえる。相互作用が観察できるようになると、言葉が良くも悪くも意味づけに過ぎないことに気づくことができる。もちろん言葉の意味の世界も大事だが、それと同じくらい相互作用の世界で起きている小さな変化や安定も大事なことなのだ。そうした、言葉以前の相互作用を観察することは、言葉の意味の世界を豊かにしてくれる。

③目の前の事象の相互作用に追従しながら観察に没入すると同時に、何が起きているのかを見立ててどのように関わっていくのかの手続きを考える必要がある。もちろん、いきなり観察と見立てが同時にできることはなく、始めは観察をしっかりと身につけることが大切となる。そして、見立てる時に、その人がどのように体験をしていて、どんな言葉を使い、どのような時間軸から、どのように外界に注意を向けて、どのような記憶のネットワークを形成しているかを見立てなくてはならない。何かに注意が張りつきやすい人もいれば、注意が転がりやすい人もいる。視覚が優位な人もいれば、聴覚や身体感覚が優位な人もいる。意識が過去に向かいやすい人もいれば未来に向かいやすい人もいる。その人の諸能力のつながり過ぎなところや切り離されているところを理解し、そのような人の多様で複雑な個を形成する関係に対する見立てと、その人が持っている能力や資質を生かすような手続き、あるいはその人自身が自らの能力や資質を活かしていける状況や文脈を考えることが観察の次に必要となってくる。

④システムズアプローチの要は二重の観察による記述にある。つまり、システムを外部から観察している立場(問題対象システム)と自らがシステムに関わりその内部から観察している立場(治療システム)である。これはシステムを外部から観察しているとみなしながらも、実際にはシステムの内部から観察しているという臨床実践での矛盾と多重性である。その為に、外部からの観察の記述と内部からの観察の記述の違いを実際の関わりに活用することが重要となる。その際に、システムの相互作用に関わりながらも、システムの相互作用を俯瞰するような視座を習得し、システムの相互作用の流れであるニーズに沿いながらも、ローカルな知を参照し協働的に内側から変化の文脈を構成すること、外部からの影響をシステムの変化に活用することが要となる。

⑤ブリーフセラピーは短期療法とも呼ばれているが、セラピーを短く終結することが目的でない。必ずしもセラピーは長期である必要はなく、必要な効果に応じた短さ、つまりクライエントの負担ができる限り少なく、実際に生活上の不具合が解消されることが目的となる。また、ブリーフセラピーには、システム内のこれまでの対処方法である解決自体を問題とするものもあれば、クライエントとセラピストという基本的な相互作用の言語による現実の構成を扱うもの、時間軸の位相や意識の連続性に働きかけ未来の時間イメージを再構成するなど細かな立場の違いがある。どの立場も、解決には必ずしも原因を必要としないこと、相互作用を見立て何かしらの行動に働きかけること、その為にクライエントとセラピストという相互作用を支えるような関係と解決の橋渡しになるような能力や資質の形成に努めることが要となる。

⑥システムズアプローチやブリーフセラピーでは感情を扱わない訳ではない。たしかにシステムズアプローチやブリーフセラピーでは感情を対象として直接的に扱うことはしないが、むしろ感情のような、情動的な反応への理解をセラピストの頭の中にある仮説に加味して、今後起こりうる可能性のシュミレーションをおこない、クライエントや関係者を支持しようとするだろう。そして、感情をある状況下で起こる反応のパターン、コミュニケーションで起こる相互作用に対する枠組みや面接に対するモチベーションのひとつとして理解していると考えられる。つまり、感情そのものを対象として直接的に扱わないが、感情を無視している訳ではない。それは、感情には、直接的に扱おうとすれば抽象的に膨らんでいく特徴や、感情は何かに伴うかたちで働く特徴がある為に、具体的な相互作用の中のひとつの要素として感情を間接的に扱っているともいえる。また、システムズアプローチでは、人間間のコミュニケーションを、具体的に観察可能な相互作用である〈要求⇆反応〉という行動の連鎖と、その相互作用に付随する枠組みから理解していく。つまり、どのような状況で実際に何が起きて、それを問題とされることに関係する人々がどのように意味づけてやりとりしているのかを把握していくといえる。加えて、ブリーフセラピーでは、問題のイメージよりも解決のイメージから喚起される感情、あるいは身体感覚に注意を向ける傾向がある。それは、クライエントの問題に関する訴えを聴きつつも、解決への期待や不安にも耳を傾けている二重の聴き方や、クライエントのニーズが充足できるように問題から解決へと橋渡しする関わり方と関係している。こうした点から、システムズアプローチやブリーフセラピーでは、感情を扱わないようにみえるといえる。しかし、それは誤解であり、個人を対象にしているかと、関係を対象にしているかの違いといえる。

⑦システムズアプローチに技法はあるかと問われれば、技法は相互作用をセラピスト側から切り取られた手続きにつけられた名称でしかなく、あくまで実際に起きていることを理解する為にシステムやコンテクスト、相互作用や枠組みといった認識論を使って、クライエントのニーズに沿った面接になるように自らの振る舞い方を検討している。つまり、何らかの技法を単体で使うことはなく、実際に起きていることに対する認識論による見立てとセットで、その手続きである技法が選択されるといえる。また、先述のリフレーミングの話にもつながるが、技法を使ったから変化が起こるのではなく、これまでの相互作用の中の小さな変化の積み重ねを具体的な変化としてクライエント自身が理解や利用できる状況としてしつらえるからこそ、結果的に技法がクライエントの役に立つと考える。つまり、治療者の振る舞い方が相互作用にいかに影響するかを、自らを含めた治療システムという考え方から検討した上で、はじめて具体的にどのように関わるかという技法の問題が成り立つといえる。また、技法以前にクライエントや関係者と基本的なコミュニケーションが成立しているかの方が問題であり、観察する自らもまた観察されており、目の前の人の反応がセラピストの関わり対する反応であり、常にクライエントの反応から自らの応答性を検討することの方がどのような技法を使うかよりも重要である。その際に、言語によるメッセージだけでなく、視線・頷き・声のトーン・身振りや手振り・間やリズムなどの非言語のメッセージを工夫することが要となる。

⑧システムズアプローチやブリーフセラピーでは、人間間のコミュニケーションを基本的な相互作用としているが、実際には様々な水準の相互作用によって成り立っている。こうした複雑な相互作用を理解する為には、システムズアプローチやブリーフセラピー以外の認識論が役に立つ。例えば、精神科や心療内科の領域では、精神医学の考え方や薬物療法の作用機序といったよりミクロな相互作用が人間の精神活動を理解する為に役に立つだろうし、司法や福祉の領域では法的なシステムや福祉サービスの制度が問題とされている相互作用にどのように影響を与えているかといったよりマクロな相互作用を検討することができる。このように、多様で複雑な相互作用のどの水準に働きかけ面接を展開していくのか、システムの範囲をどのように設定するのかは、セラピストの工夫するところとなる。また、システムズアプローチやブリーフセラピー以外の心理療法・精神療法の諸理論をひとつの枠組みとみなすならば、システムズアプローチに限った話でいえば、あくまでシステムズアプローチという認識論の中で、他学派の理論や技法を援用するという形にならざるえないといえる。この点、ブリーフセラピーに関しては他学派との併用がシステムズアプローチに比べてやりやすいと考えられる。しかし、システムズアプローチもセラピストにその認識論がしっかりと身につき無意識に振る舞えるのであれば、より柔軟で自然な形で、多様で複雑な相互作用や他学派の理論や技法を活用することができるといえる。

対人援助に対する3つの疑問

1. 国籍、言葉、家を持たない人がいる。そうした人達はある日目の前から消えてしまうことがある。何も持たない人に何が援助できるのか、教条的にまずは住居と食料をと言うことができても、継続した援助をするには覚悟も見通しもいる。制度に押し込めるのではなく、そうした人の多様な生にどう応えるのか?


2. 援助、相談、支援の名のもとに、何も持たない人をいじめているだけではないだろうか、そもそもセラピーやケアは、その人自身のものではないのだろうか。もし生まれた時代や土地や家が違ったら、その人の人生は私の人生だったのではないだろうか、だとしたらその差はどこにあるのだろうか?


3. とはいえ属人として働く場合には制度としてサービスを提供することも大切だし、属人ではない個人開業であっても職能集団の綱領に従うこともまた大切だ。そして出会った人達から拾い上げた声は、自分の成果に利用するのではなく、社会に還元することを期待される。それが、よりよい制度をつくるのでは?

感情論

 感情とは、自らの状態を報せ、本来は自らが何を欲望しているのか、その為にどんな行動を取れるのかを吟味する為の閾値に働く信号のようなものであり、それは外界と内界を構成する膜や襞による快不快に起源を持つものかもしれない。感情自体の記憶はなく、感情は知覚や運動の記憶に伴って感じられる。その時に、どのように感情を体験するかで、経験のされ方ーただ過去になるのか、過去にならず身体に残るのか、未来を先取りするのか、忘れ去られるのかーが変わっていくのかもしれない。そこにはリズムと調整、安全と信頼関係がある。古代の人は魂の働きとしての感覚、つまりは保全の記憶に感情が伴う、あるいは魂の受動的な働きと考えていたようだが、次第に魂を身体から切り離し、感情を思考から切り離し、欲動を欲望から切り離していったようにもみえる。感情も判断するものであったのに、誤った判断であり制御すべきものとされた。だとしたら、それは魂の働きとしての閾値を充足させること、つまりは満足を知った上で節制された欲望を抱くのではなく、快をより多く不快をより少なくするという質の問題を量の問題として誤謬することが起きていないだろうか。あるいは、欲望を充足することを、不安を抱かないこととしてしまうような。私たちの持っている気質や性向を能く育てるのなら、魂の欲求部分である、感情と欲望がもつ認知と判断を習慣づけていくことといえるのかもしれない。それは選択に基づく行為に対する直観を働かせた論証の実践であり、または思慮を働かせることで、よい性向を形成していく徳であるといえるかもしれない。

心理療法は誰のもの?

 対人援助職が不当な搾取があることに声を上げなかったら、その声は無かったことになるという考えもある。そういった意味では、東畑さんの言う政治と信田さんの言う政治は全く違うものだと考えられる。ニーズを絞って本を書くのと、ニーズがあって本を書くとの違いがあるように感じる。

 10年後には日本語だけで対人援助の仕事をするのが難しくなっているのかもしれない。そうした時に、これまで無視してきたニーズをどのように取りこぼさないようできるのか、表象だけでなく、社会や政治の課題取として取り組んでいけるのかということが気になっている。

学習のスクリプト

言葉を理解することと、言葉で何かを理解することの違いを考えたことはありますか。

そして、意識で理解することと、無意識が理解していることの違いを意識していますか。

意識の心が聞いている時、無意識の心もまた聞いていることを知っていましたか。

理解できない時の混乱、理解できた時の驚き、そして理解されたことは当たり前に忘れられていること。それが分かった時に状況がまったく変わっているとしたら、変わっていることをどんなふうに気づくでしょうか。

私たちは学習の構えを持っています。そして、その構えから外界の状況に注意を向けています。毎日の生活の中で、私たちは多くのことを学び、その知識を無意識に送り込んでいます。学んだことは忘れられて、いつでも思い出すことができます。そして、無意識には、これまでのあらゆる学習が貯えられているのです。

はじめて何かを学んだ時のことを覚えていますか。楽しかった人もいれば、嬉しかった人もいるでしょう。悔しい思いや不安な思いではじまったとしても、それが終わった時には安心していたことを思い出してください。子どもは言葉を理解する時に、文字通りに理解します。そして、自分が好きなもの、楽しいこと、望んでいることを思い浮かべます。

大人は言葉を理解する時に意味や価値に従って理解します。知的な理解が学習を妨げることがあります。大人は言葉から体験を理解し、子どもは体験から言葉を理解します。そして、大人も体験から言葉を学び、子どもも言葉が体験になることを学ぶことができるのです。それはワクワクするような、とても楽しいことなのです。

あなたが、はじめて何かを理解した時、どれくらい小さな子どもでしたか。その時に好きだったもの、楽しかったこと、望んでいたことを思い出してください。思わずクスクスと笑ってしまったり、匂いや味を感じたり、音や声が聞こえてくるかもしれません。あなたが子どもだった頃にもどる時に、私の声は、あなたの両親や大切な人の声に、近所の人や友達声に、同級生や先生の声になるでしょう。そして、何かを学ぶことを楽しんでいる自分を見つけてください。それはあなたも忘れてしまった、遠い昔の出来事なのです。

小さな子どもはワクワクすることを楽しんでいます。あなたはどれくらい楽しめていますか。自分が望むくらい、小さな子どもにもどることができるのです。子どもにとってあらゆることは新鮮で、どんなことからも多くのことを学ぶことができるのです。

はじめて動物園に行った子どもたちは、どんなふうに動物たちのことを理解するのでしょうか。どんなことを期待して動物園に行ったのでしょうか。ワクワクして寝れなかった子もいれば、期待しすぎてドキドキしている子もいるでしょう。動物以外のお菓子やお弁当のことを考えていた子もいるでしょう。

子どもたちは先生に言われて、スケッチブックに自分の好きな動物の絵を描きます。すぐに好きな動物を見つける子もいれば、なかなか決まらない子もいます。動物たちは、いろんな鳴き声や匂い、形や動きやをしています。子どもたちは自分の好きなものやワクワクするものに注意を向けます。色、形、大きさ、数、動き、子どもたちが注意を向けるものは様々です。そして、自分の好きな動物の絵をスケッチブックに描くのです。

動物の全身を描く子もいれば、気になった部分だけを描く子もいます。はみ出すくらい大きく描く子もいれば、とても小さく描く子もいます。子どもたちは、動物の絵を描きながら多くのことを学びます。自分では気づいていないのかもしれません。それでも、学んだことは無意識な貯えられているのです。それは、とても幸せな出来事です。

書き手と名前

 どんな著名な書き手も、その時代のその土地で育まれたもの、なかったもの、その状況での関係や立場といった諸力の網目から生成し、消滅していると捉えるならば、スターシステムのような誰かの名前が学問になるということでもなく、諸力は構成された現実で再構成が可能とするでもなく、その時代の現実に向き合った誰かの思考の痕跡が、書き手の残したテクストとして目の前に顕在していると考えた方が良い気がしてきた。その際に、闘う相手は政敵ではなく、カオスの一歩手前で留まるという抵抗であり、それは坂を転がる自分自身との闘いである。それは現実に向かって、奪われた主観性を取り戻す闘いだ。

 

検討点

1.主観性と主体性の違いを考えるときにこそ、欲望という考えが役に立つとしたら?

2.書き手を技術やテクノロジーに変えて考えてみると領土や閾について何がいえるか?

3.事象や対象を複数で捉えること、同一であることから逃れながら運動するためにはどのようにすればよいのか?

構文

第1文型 SV 「SはVする」(名詞+自動詞)

Gabriel came to Nagoya this summer.

Hisato lives in Nagoya now.

第2文型 SVC 「SはCである(be系)」「SはCになる(become系)」(名詞+自動詞+形容詞[名詞])

Our cat is very cute.

Keiji became a soccer player.

第3文型 SVO 「SはOをVする」(名詞+他動詞+名詞)

We study English.

Almost everyone likes suger.

第4文型 SVO₁O₂ 「SはO₁にO₂をVする」(名詞+他動詞+人をあらわす名詞+物をあらわす名詞)動詞の後は「だれに」+「何を」を表す名詞

I gave my wife a book.

I will buy you a castle.

Mr. Matsunaga teaches us mathemtics.

Tomohiro showed us a photo of his girlfriend.

Please send me an e-mail if you have any questions.

I will give this rare books to Satuki.

 第5文型 SVOC 「SはOをCにする(SによってOはCになる)」(make系)「SはOをCだと思う」(think系)O=C (名詞+他動詞+名詞+形容詞[名詞])動詞の後は「何(だれ)を」+「どのように」を表す名詞

The news made us happy.

You will find this movie interesting.

Don't leave the door open.

We named the cute turtle Kame-Taro.

Many people think this painting a masterpiece.

Most students must find this book use useful.

 

Studying too much is not good for your learning.

勉強しすぎることは、あなたの学習に良くない。

If it were sunny tomorrow, I would go to Akabane for a drink.

明日が晴れだったら、赤羽まで飲みに行くのにな。

Her mother put her through college and made her a philosopher.

彼女の母親は彼女を大学に通わせ哲学者にした。

My teacher gave me books that interested me in the English language.

先生は私に英語へ関心をもつ本を与えた。