夢の中で言葉が話せるのはなぜか?

はじめに

 素朴な疑問として、「夢の中で言葉が話せるのはなぜか?」を考えてみると、当たり前のようで当たり前でないことに気づきます。それは、夢の中にいる時、意識は眠りについて無意識※1の状態だとしたら、言葉を話しているのは無意識なのか意識なのか、それとも無意識が意識を使っているのか、無意識も言葉を話せるのか、意識が思考するように無意識も思考するのか、などいくつも疑問が出てくるからです。この文章では、「夢の中で言葉が話せるのはなぜか?」という疑問から意識と無意識について、意識には意識の思考があるように、無意識もまた無意識の思考があるという立場から、この素朴な疑問について考えてみたいと思います。

 

意識の思考

 十分に覚醒している意識の思考は、外界をある状況であると定位※2して、その定位した状況に必要な情報を選択して、自身の状況を理解していると考えられます。それは、その定位の中に、定位の仕方に基づいた注意を向けているといえそうです。その注意の向け方の特徴は特定の方向性※3を持っていると考えられます。また、注意は連続性※4という特徴を持っていて、その特徴は意識の同一性や組織化にも関係していると考えられます。

 

無意識の思考

 夢の中の思考は、無意識の思考に似ているのかもしれません。夢の中で、私達は目の前にあるものに直接反応します※5。そこに、意識の思考のような繋がりは無く、脈絡も無く目の前のものに反応して、あったものは忘れ去られていきます※6。しかし、そこには現在だけでなく、過去の体験も関係していて、意識の思考とは違った思考の仕方があると考えられます。

 

言葉と身体

 言葉は定位をコードした、そのものではないけれどそのものを指し示す記号であり、そこから象徴されるものを読み解いています。それはコード化された言葉から、記憶に照らし合わせ情報を集めているとも考えられそうです。そして、言葉は無意識の思考のような類推だけでなく、推論にも関係しています。言葉は記憶だけでなく意識の思考のあり方にも関係しているといえそうです。

 もう一方で、身体は目の前のものに追従し反応していきます。そして、無意識の思考は動くことで思考しているようにもみえます。こうした無意識の思考は注意ではなく、気づきといったやり方で必要なものを意識の思考に差し出しているといえそうです。また、無意識は身体そのもので、身体の反応は無意識の表現であり、身体からは離れられず、私達が観察できるのはあくまで間接的な現象だと考えられます。反対に、意識は身体から離れて、どこまで自由になろうとしているようにみえます。

 

記憶と知覚

 夢の中でも言葉を話せるということは、無意識の思考も言葉に関する記憶にアクセスしていると考えられます。意識が無意識と呼ばれるような貯蔵庫にアクセスしているという考え方から、潜在的な記憶と対象への注意という相互作用によって意識と無意識と呼ばれるようなトップダウンボトムアップの動きが生じていると考えてみるとどうでしょうか。

 たとえば、言葉を話している時、知覚と運動は、知覚が起点となり運動が起こり、運動が起こることで知覚が起こるという二重作動※7していると考えることができます。また、記憶は注意によって不要なものが削られ現実化していき、注意が向けられていた対象の印象が記憶となり潜在化していくと考えることができるかもしれません。そして、別の見方をすると、記憶と知覚、注意と運動は、異なる階層にあるもの同士が互いに規定し合うような関係である構造的カップリング※8にあると考えれます。

 意識の思考と無意識の思考を構造的カップリングと二重作動で図示してみると以下の図(記憶からみた意識と無意識の働きの図)ようになるのかもしれません。


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図1 記憶からみた意識と無意識の働きの仮図(筆者作成)

 

 こうしたアイデアは、アンリ・ベルクソン『記憶理論の歴史 コレージュ・ド・フランス講義1903−1904年度』(書肆心水)の二重の記憶の平面について論じている箇所を参照しています。ベルクソンの記憶理論を図式化してみると以下(ベルクソンの「行為の平面」と「記憶の平面」の逆円錐図)になります。


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図2 ベルクソンの「行為の平面」と「記憶の平面」の逆円錐の図(ベルクソン『記憶理論の歴史』書肆心水 p. 114の図、を参照)

 

まとめ

 これまでのことから、夢の中で言葉が話せるのは記憶と知覚が関係していると考えられます。この問題を意識と無意識ではなく、記憶と知覚の問題として捉えてみるとまた違ったものがみえてきそうです。

 今後の課題として、アンリ・ベルクソンの哲学やその哲学からマルチ時間スケール(MTS)を提唱した平井靖史先生の時間哲学と、精神科医であり現代催眠の基礎を築いたミルトン・エリクソンの臨床から記憶と知覚について考えていきたいと考えています。

 

おわりに

 この文章は、あくまで私個人の考えたことで、科学的な根拠もなければ、哲学的な引用も無い文章になります。ただ、こうして考えてみると無意識の思考と意識の思考というのは、物質と精神のように地続きの現象であり、機能であると考えられるのかもしれません。ちなみに、この記事を書き終えた後に頭の中を整理したメモが以下の図になります。


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図3 二重作動モデルと構造的カップリングによるベルクソンの記憶理論の記述の図(筆者作成)

 

注釈

※1 無意識

 ここでの無意識は精神分析を提唱したフロイトによる無意識の定義でも、心理学的な意味づけをされた無意識の概念でもなく、身体的な記憶、あるいは潜在的な知覚や運動、観念(図式、表象、心象、イメージ)や感情(興奮と沈静、快と不快、情動)などの学習(マナトゥーラとヴァレラの提唱したオートポイエーシスに倣うならば生体システムに構成されたパターン)といった意味で使っています。

 たとえば、フランスの哲学者であるベルクソンは著作の中で、“精神にとって、生きるというのは、本質的にはなされるべき行為に集中することです。したがって、生きるということは、意識から行動に利用できるすべてを抽出するメカニズムの媒介によって事物の中に入って いくことです。”と述べたうえで、脳の記憶作用については“意識のなかで利用され ていない残りの最大の部分はあいまいにしておくことも辞しません。これが脳の記憶作用の操作における脳の役割です。脳は過去の保存に役立つのではなく、最初は 過去を隠し、次に過去のなかで実際に有用なものを透かして見せるのに役立ちます。”と述べています(アンリ・ベルクソン『精神とエネルギー』レグルス文庫 p.72より引用)。

 この文章でも、意識されない部分としての無意識ではなく、意識の全体としての無意識、意識の思考とは異なるプロセスとしての無意識の思考として無意識を措定しています。言い換えるなら、無意識とは、ただの無意識であって意識が生じる以前の意識であると言えるのかもしれません。

 

※2 定位(フレーム)

 定位は、私達が持っている前提、ある状況に対する理解の仕方、認知的な枠組みや参照枠であり、精神が持っているフレームと考えられます。フレームは、グレゴリー・グレゴリー・ベイトソン心理的フレームや、ポール・ワツラウイックとドン・ジャクソン等のコミュニケーション公理に倣うなら二重の枠を必要とします(ベイトソン『精神の生態学遠見書房、ワツラウイック『人間コミュニケーションの語用論』二瓶社、を参照)。

 たとえば、外界に対する情報でいえば、これは〇〇であるという情報(コンテツ)と情報についての情報(コンテクスト)があり、コミュニケーションでいえば、コミュニケーション自体の内容とコミュニケーションについてのコミュニケーションである関係という二重の枠、あるいは二つのレベルを必要としていると考えられます。

 この文章では、ひとまず外界に対する理解の仕方といえる定位があり、その定位に従って向けられた注意によって情報が集められていること、そしてその注意の向けられ方には方向性があること、が伝われば十分です。もし敢えて加えるならば、この定位は、言語によって構造化され、分類により構成化され、時間によって主観的な因果論や順序づけされ、空間によって位相化されていると考えられます。

 

※3 方向性(オリエンテーション

 私達は、目覚めた時に無意識にとる行為があったりします。それをすることで、自分であることを確かめるような仕草や癖です。そして、自分であることを確かめると、今日の予定や今から起こることを考え、生活の中に戻っていきます。

 このようなことは、自分であることの確認、つまり連続性や同一性の方向性を確かめる行為なのかもしれません。そして、私達は、今日の予定や今から起こることなどの未来のイメージを持っています。多くの人がこうした未来のイメージに従って注意を向けていると考えられます。この文章では、こうした注意の向け方の仕方や、覚醒時に自分であるという連続性や同一性の確認を方向性(オリエンテーション)としています。

 

※4 連続性(意識の同一性と組織化)

 意識は連続性を持っていて、その連続性は注意の方向性(オリエンテーション)に関係していると考えられます。また、その連続性は同一性であり、意識の組織化に関係しているといえるでしょう。オートポイエーシスでは、生体システムを認知(知覚)のシステムとして捉えていて、自己言及的な二重性、自己構成的(再帰性)、自律(自発)性という特徴があるとされています。

 意識の連続性が同一性に関係しているとしたら、その切断や逸脱は同一性が崩れることだと考えられます。それはこれまでの学習の組織化が崩されること(意識というシステムの危機)であり、新たな学習の仕方が得られる機会(これまでの学習プロセスを脱学習すること)でもあります。日常的なことでいえば、驚いた時や注意が逸れた時に定位が変わったり(前提、理解、フレームの再構成か起きやすい)、リラックスした状態(交感神経のバランスが変わった時)の方が新しい考えがわいてきたり、といったことがあげられるかもしれません。

 

※5 直接反応する(随伴性)

 私達の身体は、目の前のものに追従し、その刺激や対象に反応しながら、その結果を取り入れて反応のループを形成しているといえるかもしれません。それは、意識のレベルの反応だけでなく、意識を介さない不随意な反応や、生理学(あるいは神経系・分泌系・免疫系といった生体システムのうちにあるサブシステム)的な反応として機能している、あるいは状態を示していると考えられます。

 このように考えると無意識の思考は、目の前のものに直接的に反応しているといえるかもしれません。しかし私達の意識は身体の中で起きていることに直接触れることはできません。身体感覚や観念、外から観察できるもの、知覚(言語も知覚とするならばここに含まれる)できるものによって間接的にしか触れられません。また意識の思考は、こうした間接的な情報の蓄積から予測し反応している。そして、無意識の思考は、目の前のものに追従しながら反応している、という予測の思考と追従の思考といった二つのモデルが働いているのかもしれません(中島央『やさしいトランス療法』遠見書房、を参照)。

 

※6 忘れ去られる(健忘)

 私達は、行動する時すべてを意識しているわけではありません。むしろ何かしらの行動している時は、何かを忘れて運動自体が自律的に行われているといえるのかしれません。私達は、健忘することで行動できるといえるのかもしれません。意識の思考からみれば、記憶していること、顕在的に働いていることがすべてで、そこに注意が向けられます。無意識の思考にとっては、目の前のものに反応することがすべてで、反応する度に反応していたことは忘れ去られていきます。そして、その忘れ去られたものは、必要な時に気づきとして意識されると考えられます。

 

※7 二重作動

 二重作動とは、要素Aが要素Bの起点となり、要素Bが要素Aとなるような二重に作動することを指します(河本英夫オートポイエーシスと二重作動」現代思想2001年2月臨時増刊号 総特集=システム、を参照)。

 

※8 構造的カップリング

 この文章では、複数の単位の行為、階層の異なるシステムの働きが互いを規定するように作用することを構造的カップリングとしています。(マナトゥーラ&ヴァレラ『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』国文社、を参照)。

【リテラシーの反省】

テクストを読まずに、自分の思い込みの意見や感想を述べない。

個人的な価値観やイデオロギーが湧き上がり、距離が置けそうにない場合は、意見や感想を控える。

テクストの文脈は、その当時から見た評価、現代から見た評価、継続的な時間経過から見た評価。と複数の視点から評価する。

自分の意見や感想が正しいと思う時、それ以外考えられない時ほど注意する。

新しい考え、自分一人では及ばない考えにたどり着ける対話がかけがえのないものであることを忘れない。

メディアやSNSで類型や診断を使って他者について言及する人、それで利益や反応を得ようとする人の発言には注意する。

その人がいない所でその人の話をしない、その人に関わることを勝手に判断しない。

意見や感想を述べる時は自分の立場を明言し、〇〇という立場からは◎◎にみえ●●と言うことができると発言する。

文献やデータを引用する時は、必ず、著者と引用文献や作成者と引用元を記載する。引用文献や引用元が明記されないものは信用しない。

耳に心地よい言葉や強い言葉で共感を得るより、自分の言動、思考と実践が一致している方が大切である。

知と人を区別する。あたかも人が知を所有していて、その人自身が権威や権力そのものかのように理解してしまいがちだけれど、知そのものに権威や権力があり、知は人、あるいは集団と切り離して考えた方がよい。

言葉の論理的な整合性や指し示す事の妥当性を言葉の強さで高めようとする言葉に惑わされる事なく、言葉の論理や意味を吟味する。

対話と言葉

 誰かと対話をする時に、相手の話しを全て理解してしまおうとするのではなく、常に理解の途上に留まりながら相手の話を聴く姿勢と、相手のユニークさに関心を向けて支配的な言説に隠れたローカルな知を掘り起こそうとする態度は、未だなかった理解や対話の可能性を報せてくれる。

 その時に、私達が使っている言語は、同じ言語でもそれぞれ独自な言語を使っているという理解が必要になる。言葉は相手の世界を表すもので、相手を理解しようとするなら、相手の世界の言葉を使う必要がある。対話は、メタ言語のような互いの辞書を交換しながら、新たな意味を生成しているようにみえる。

枠組みの階層性

区切り(パンクチュエーション)と意味づけ

 私たちは、目の前に起こる事象のつながりを、自分の視点から区切る(句読点を打つ=パンクチュエーションする)ことで、起きていることを理解しているとみることができます。この時、事象や事物を意味づける(概念化、枠組み、参照枠、認知する)ことで理解し、その理解を言葉にして、何かを思考したり、他者とのコミュニケーションに使ったりしています。そして、事象に対して、これは〇〇だと意味づける何かしらのフレーム(前提、概念、枠組み、参照枠、認知など)を持っていて、そのフレームを通して事象(外界)を把握していると考えることができます。


第一志向と第二志向

 私たちは言葉を使って思考やコミュニケーションをしています。言葉を使う中で、直接の体験からなる概念(第一志向)だけでなく、概念の概念(第二志向)といった直接の体験から離れた概念にも頼っています。

 しかし、普段これらを区別して使うことはありません。それは、直接の体験からなる概念(第一志向)と、間接的な体験からなる概念の概念(第二志向)を、いちいち区別していたら円滑な思考やコミュニケーションが阻害されてしまうからです。私たちは、普段から何気なく、実際に観察可能な目の前で起きた事象を、何かしら意味づけて理解しています。それを言葉にして、自分の内で思考したり、他者と言葉を介してコミュニケーションしています(実際には言語コミュニケーションだけでなく非言語コミュニケーション、あるいはコミュニケーション〔コンテンツ〕とメタ・コミュニケーション〔コンテクスト〕のセットになります)。


概念(枠組み)と階層性

 こうした意味づけられた概念(枠組み)は、実際に起きた事象、人間間のコミュニケーションでいうなら観察可能な行動の連鎖(つながり)に対して、階層性を持ってみることができます。例えるなら、行動の連鎖(つながり)の骨組みに、概念(枠組み)が肉づけされているといえます。そして、肉づけされている概念(枠組み)は階層性を持っていて、直接の体験に近い下位の概念から、実際の事象や直接の体験とは離れた「あの人は〇〇だ」、「私は〇〇だ」というような上位の概念が積み重なっているとみなすことができます。しかし、この上位の概念は、その人にとっては真実のように感じられることが多いと考えられます。私たちは、このように事象(行動の連鎖のような出来事の一連の流れ)に対して、階層的な概念(例えば、上位・中位・下位というような階層性を持った概念のネットワーク)を持っているとみなす事ができます(図「コミュニケーション相互作用の枠組み階層図」を参照)。

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事象と概念(枠組み)を区別する

 以上のように考えると、実際に起きた事象を把握しようとするなら、事象とその人が意味づけた概念(枠組み)を区別する必要があります。そこで最初の第一志向と第二志向の区別が重要となってくるのです。事象を把握するには、自分の目で観察するのがより正確ですが、そうでない場合は言葉による報告(語りや話し)に頼るしかありません。そうなると、聞き手は話し手の報告(語りや話し)から、実際に起きた事象と概念(枠組み)を区別して、〇〇ということが起きて、それをこの人は◎◎と理解しているんだなと翻訳する必要があります。その時に、直接の体験からの概念の方がより事象に対してより正確で、直接の体験から離れるほど不正確になるという原則は重要だと考えられます。

 

定位、方向性、注意

 結局は、それも私自身の説明モデル(認識論)でしかない。誰もが、世界とは〇〇であるとか、私は〇〇をしているだろうとか、前提や未来のイメージを持っていて大体それに近い現実に着地する。それは因果論ではなく、外界への定位と、意識や注意と方向性(オリエンテーション)と、無意識の学習による。意識は事後的に報告されたものを自分が決定したと錯覚しているし、無意識は常に今起きている事に役立つ反応を差し出そうとしている。つまり、無意識に溜められた意味の無い学習は忘れ去られ、必要な時に意識に上がってくる。しかし、意識は定位と方向性から情報を選択するので常に気づくとは限らない。新しく学習する為には、これまでの学習を脱学習する必要があり、その為には定位が外れたり、方向性が中断/切断され注意が向け直される体験が必要になるといえる。つまり、これまでとは違う文脈に対する学習が起こるような状況を作るのだ。そして、その時に無意識は意識より賢く必要なものを差し出す。

〈技〉と〈守破離〉に対しての批判についての検討

 では、〈技〉や〈守破離〉などという職人のような考えは心理臨床の世界ではまかり通らぬ、時代にあった考えではないという人達には、どのように応答すればよいのでしょうか。また、異なる意見としてサービス業として、顧客の満足度をどのように得るのか。あるいは、顧客のニーズに沿っているかの妥当性をどのように得るのか。たとえ、論理的な妥当性がユーザーの「個」を切り捨ててしまうとしても、ニーズに沿っているかという合目的的な妥当性をどのような基準や方法で得るのかという問いかけには、どのように応答すればよいのでしょうか。

 こういった、アウトカム(ユーザーからの評価)とそのアウトカムがどのようにサービスの向上にフィードバック(ユーザーからの異議申し立てと関係者の賛同を含めた合意形成/コンセンサスを得ながら協働的な実践を目指す為のユーザーの反応の反映)されるのかという点は考察すべき課題と考えられます。

 個人的には、〈エビデンス(普遍性)〉は、臨床の理論が論理的に適切かという「論理的な妥当性」と、臨床の理論に基づいた研究方法(デザイン)が適切かという「研究方法的な妥当性」があると考えられます。また、〈エビデンスに基づく実践(個別性)〉は、サービスがユーザーのニーズという目的に沿っているかという「合目的的な妥当性」と、サービスが現在提供している方法が効果を得ているのかという「方法的な妥当性」があるのではと考えています。言うまでもなく〈エビデンスを基づく実践〉を実施するには、対象を具体的な標的に絞ることや、標的の変化を数値として記録し、その変化をユーザーと検討する必要があると考えられます。

 その時に大切な事は、ユーザーと一緒に適切な方法を実験的に試してみる、その結果を話し合いながら、ある程度の効果や合目的的性を得られるように修正していく事だといえます。とはいえ、サービスを提供する側の責任として、サービス全体をどうデザインするかという事は臨床家が考えなくてはならないといえます。

〈守破離〉の世界

 守破離は、グレゴリー・ベイトソンの学習理論でいうならば、守が学習Ⅰ、破が学習Ⅱ、離が学習Ⅲにあたると考えられそうです。基本は学習Ⅰと学習Ⅱの繰り返しで、その中で稀に学習Ⅲ(システムそのものの脱学習と再学習)が起こるくらいのものだと考えます。学習Ⅲは、精神的な危機を伴うような体験になりえるでしょう。

 ちなみに、ゼロ学習は、生理的な反応のようや生まれ持ったもの。学習Ⅰは刺激と反応の関係、ルールについてのもの。学習Ⅱは、刺激と反応の状況や文脈(コンテクスト)についてのもの。学習Ⅲは、学習しているシステムそのものの解体と創発についてもの。ということができそうです。

 私自身が指摘されたのは「新しいことを学ぶ時は、これまでのことを捨てなければ何も身につかない」という事です。誰しもこれまでの学習といえる枠組み(認識論)を持っていて、それを通しての世界を理解しています。それを捨てなければ、新しい学習も過去の学習からみた下位の学習になってしまうからです。

 まったく新しく学習するにはこれまでの学習や枠組みを解体する(脱学習)必要があります。そこには自己のようなひとまとまりのシステムの危機も伴う体験になると思います。学習とは、知識や情報を入力するだけでなく、知覚と運動、刺激と反応、要求と関係のパターンが成立することだと考えられます。

 守破離は元々芸事の言葉ですが、現代では創作の話として受け取られているのかもしれません。その面がある一方で、守があってこその型破りだし、守がなければ型無しになってしまう面もある。破は守の世界から飛び出し、型通りではなく、いのちの持っている性や癖を生かす実践の模索の段階ではと考えています。そして、離は、守にも、破にもしばられることなく、自分の性や癖も知った上で、相手の性や癖を生かすことができることをいうのではないでしょうか。

 芸事や学問などの、「口伝」というのは師弟関係の中だけの〈伝承〉だと思い込んでいましたが、実際はその〈文化〉自体を〈継承〉することなんだと考えたら、「口伝」の重みが分かるような気がしました。また、こうした守破離の世界のような修行の過程で、傷つきや恥の体験が生まれることも多く、その辺りは今後検討してみる必要があると考えています。