墓地の一角に、無縁仏となった墓石が一箇所に集められ、円心状に積み重ねられている。もはや、ひとつの塔のようだ。いや、巨大な墓石といった方がよいのだろうか。とにかく、不思議な存在感がある。無縁仏は、墓を管理する人がいなくなり、縁が途切れてしまった墓で、そこに積まれた墓石は誰の、何処の家の、といった記憶が忘れ去られ、無縁仏として重ねられているのだ。墓石は皆、表面が岩石のように粗くなっている。中には角が丸くなったものや、艶のある表面が削られていく途中のものもある。
墓石は個人の記憶に結びついている。墓前に訪れる時、死者と対話する人、何かを報告する人は多い。縁がある人にとっては、死者としてまだその人の生に結びついているのだ。ふと、無縁仏と縁が途切れていない墓石にどんな違いがあるのだろうと思う。よほどの著名な人や家の墓石なら縁者が途切れても他の誰かが、管理するのかもしれないが、よほどの人や家でない限り、いつかは縁が途切れてしまうだろう。だとしたら、いつかは皆、忘れ去られてしまい、無縁仏になっていく、そう考える方が自然なのかもしれない。
個の記憶より、種の記憶の方が長い時間を生きるのだろうか。言語と記号を使う人間は動物より多くのものを残せるだろうし、永遠とまでいかなくても、人間の種の記憶は個の生に比べ長い時間この世界に留まることだろう。ひとつひとつの個の命は自然、あるいは物質に還るが、種という命は続いていく、これも何かの縁なんだろうか。個人の縁とは随分と違うものになるだろうが。案外、私が個という存在の形態に執着しているだけで、そういった、縁や記憶もあるのかもしれない。
そう考えると、眼の前の無縁仏の存在の不思議さも納得がいくような気がしてくる。個人の縁とは、また違った縁で結ばれた墓石、無名になり、雨で削られ、ただの石になっていく墓石の集まり。ただただ物質としてある存在。種もいつかは、物質に還るのだろうか。それとも、誰かが、墓石を積み上げていくのだろうか。しかし、種の縁が途絶えたら、やはり、いつかは種も物質に還るのだろうか。56億7千年後の未来、物質が光輝いているのかもしれない。