世界と他者、そして分有と共感

 世界がここにあると信じている人たちと違い、世界を疑っている私の振る舞いは、どこかよそよそしく、常に何かに追われているようだった。どこか落ち着きのない、安心できない気分に覆われて、他者がずっと遠くに感じたり、自分がここにいるという感覚が希薄だったりした。それでも、カレンダーを予定で埋めている時は安心できたし、安心するために将来の不安を弄って、強迫的に予定を埋め込み無理やり自分を動かしたりしていた。

 そんな最中、おそらく二十代の後半だったか、エンカウンターグループの研修だったのか、ファシリテーションのワークショップだったのか、どこかのグループワークに参加して、ワークの一環で、自分の悩みを参加者に話すことがあった。どんな悩みだったかは忘れてしまったけれど、おそらく他愛もないことだったようで、参加者からは、我儘な悩みだ、理解できない、といった声があがり、共感は得られず批判的なフィードバックを返されてしまった。

 すると、ファシリテーターが、おもむろに割って入り「この人は、実存について悩んでいるんだ。自分の在り方に、だから我儘ではなくて、とても切実な悩みだ。」と批判的な声を遮った。そして、私の方をじっと見つめながら、「でも、こうして生きているのも事実でしょう。悩みながらも、生きていくことはできる」とだけ言った。

 ほんの一瞬の出来事だけれど、私の悩みは見過ごされることも、矮小化されることもなく、関心を向けられ、承認されることになった。とはいえ、それは以前とは少し違った感触になっており、私の悩みは、私がここにいること、生きていることの証になっていた。それは、他者に共感され、悩みという重荷を、他者と分有し、誰かと、世界と再び接続することになった。

 世界を疑っている時、他者と繋がれない時は、自分自身との関係もぎこちない。何かを誤魔化すような自嘲と、死の不安のような本来的な落ち着かなさを迂回するような話し方になってしまう。そこには、信頼が失われた、足元の悪さ、存在の底が抜けてしまったような、体験が私の向こう側にいってしまうような感覚があった。しかし、それは一瞬だったけれど、分有された私の不安こそが、他者との、世界との繋がりの基盤となったのだった。

 自分の体験は、自分だけのもので、こんな惨めな思いをしているのは、こんな情けないのは自分だけだろう、そんなふうに思っていたものが、他者も同じように感じていることを知った時、少しだけ安堵するような、平穏が訪れるような気持ちになることがある。そんな瞬間は、その追いやっていたものこそが、世界へ再訪するためのパスポートになったりする。