若い頃の失敗、死の不安を忙殺で追いやること。

 生き物が死ぬと知った時、私は怖くててたまらなかった。自分の存在がこの世界から無くなるとはどういことか、幼い心で考えても答えは出るはずもなく、それ以来、死という不安に襲われては泣いてしまう日々が続いた。いつか死んでしまうのに、何故生まれてくるのか、どうして、こんな理不尽なことが許されるのか。もし神様がいるのなら、こんな理不尽な世界にしたのだろうか、そんな神様など信じることができる訳がないと、強く思った。

 いつか死んでしまうというのに、平然と生活している多くの人達を疑った。怖くないのか、不安ではないのか、何故死を免れようとしない、死なない努力を何故しないのか、何故毎日生活をすることができるのか、何故死んでしまうのに性を楽しむことができるのか。私は弱いのだろうか、他の人はこんな気持ちにならないのだろうか。そんなことを考え度に、死について考え、涙を流していた。

 少しして、宇宙という広大な、しかも何故生まれたかも分からない中の、この星で生きていることを知って驚愕した。考えが及ばない、足元が抜けるような、何処か遠くの彼方に意識が連れていかれるような感覚になり、時々意識を失った。死の不安と、宇宙という解らなさ、この二つが重なりあい、私は泣いて、意識を失った。しかし、ある日、私は自分なりの答えをみつけた。私は、この星の、宇宙の、この世界という中に存在している。そして、私の中にも、何かが存在し、またその中にも別の何かが存在している。星があり、星雲があり、宇宙がある。世界は包摂され、包み込まれて、その中で何が生まれては、消えていく、その繰り返しの中にいる、ひとまずそう考えようと、自分で自分を納得させた。

 やがて、高校を卒業したくらいには、私は将来にさまよっており、死の不安よりも、将来の不安のことを考えなくてはいけなかった。しかし、その不安は、死の不安に比べれば、格段に楽だった。目の前にある、現実に対象すればよいだけのこと、現実に忙殺されれば、されるほど死の不安を追いやることができた。しかも、目の前のことだけに専念することは努力している人として扱われ、それもまた私の感覚を鈍化させた。私は、死の不安を追いやるために時間を忙殺させることを覚えてしまった。