木や石、火や風のように思考する。

 日頃から使っていないからか、それとも歳をとったからなのか、言葉がなかなか出てこなくなってきた。出てこないだけでなく、とにかく短くて、息切れを起こしている。文章を書く体力が衰えて、息継ぎの長いうねりのある文章を書くのが難しくなってしまった。紙に文章を書くことも減って、文字を端末に入力し、変換されていく様を眺めることに慣れすぎてしまったのだろう。
 言葉には、書き言葉と話し言葉があって、今回は書き言葉について書き連ねている。話し言葉と違って、書き言葉はとにかく流れにくい、うまく言葉の流れをつくっていくには、文章をつくっていく思考の体力もいるだろうし、思考を言葉に変えて文章にしていく体力もいる。そう考えると、思考の方も随分と衰えてしまっているのかもしれない。とにかく、何事もゆっくりになった気がする。
 とはいえ、何か感覚が鈍くなった気はしない。むしろ、感覚は鋭くなった気がする。細かいところが気になるので、他人の言葉よりも、まずは自分の言葉の感覚を吟味するだけで時間が過ぎ去ってしまう。時間の感覚が以前とは明らか違っている。以前はもっと生ものというか、煌めくような発想やほとばしる感情みたいなものが、瞬間的に言葉になって湧き上がってきたが、今はゆっくり流れる時間の中で、何か細かい変化に立ち止まって吟味しているようだ。
 歳を取ると、自分が物質に近づいているように感じるときがある。赤ん坊に近くのではなく、段々と木や石、火や風に近いている気がする。よく考えてみれば、思考も身体なかの物質が流れて、それが思考という働き、あるいは状態が起きているのだ。火や風も、物質が流れたり、混ざったりと反応するなかで、火や風という働き、あるいは状態が起こるのだから、思考が物質に近くという感覚もおかしなことではないのかもしれない。
 そう考えると、私の思考は段々と物質に近づいている。残念ながら、煌めくような発想やほとばしる感情が、湧き上がってくることはなくなってきたが、それとは違った何かより細かな、変化を吟味していくような、そんな時間感覚の中にいるのかもしれない。だとしたら、時間感覚と思考、あるいは意識の状態は何かしら関連があって、その結果として文章を書くことが難しくなったという状態があるのかもしれない。木や石、火や風のように思考できるようになったら、どんな文章を書くことができるのだろうか。年輪や肌理、煤や気圧は、彼らの思考の痕跡なのかもしれない。(1020文字)