夕方の友人達

 冬の空、鳥が沖へ飛んでいく海岸線の防波堤の上を歩いている。外側にはテトラポットの波しぶきに海藻が揺れている。内側には釣人やランナーのための歩道がまだ新しい。波が打ちつけられ、砂が吹きさらされる。眩しいと感じたら、もう夕方だった。


 友人に呼び出され、私は車を路肩に停めて、夕日に照らされた防波堤を歩いていた。オレンジ色のかたまりは、明るいというより、少しさみしい。立ち止まって眺めていると友人の声がした。


 「男は夕日がキレイだと言い、女は朝日がきれいだと言った」


 振り返ると友人は、私の影の中に立ってクスクスと笑っていた。いつものいたずらだ。気にせずに影の中を覗き込むと、クスクスと声はするが、姿はよく見えなかった。しばらくすると、私は友人の中の、自分の影を見た。影の中には、さみしそうな少年が夕日を見ていた。


 少年は友人の中にいるのか、私の影の中にいるのか、友人が私に見せているのか、私が友人の中に見ているのか、そんなことを考えていると、さっきの声は『男は過去を見て、女は未来を見ている』ということだったのかな、と思ったりした。そして、私は友人に向かってたずねた。


 「小山は呼んだの?」


 影の中から、『呼んだ、店で待ってるって』と声がした。影の中でさっきまで夕日を見ていた少年がクスクスと笑っていた。私は友人の中に少年を見ているんだろうか、それとも少年は友人の中にいるのではなくて、友人の中に、私が見ているもの、それは私になかったもの、私ではない、私がどこかで失くしてしまった、私でないけれど、私だったかもしれない何かかも、そう思った。


 私ではないけれど、私の生き別れた半身のような、何か、少年、それはもうどう呼んでもいいのだろうけれど、影のような、私という半身を補うような何かを友人の中に見ているのだろうか。それは、これまでの人間関係から染みでたものを、影の中に見るのではなく、これまでの人間関係で得られなかった何かを、影の中に見ているような感覚だった。


 夕日の中に少年を、朝日の中に少女を?そんな単純でもないだろう。もっと曖昧な、夕日と朝日が溶け込むような、海岸線の前景と後景が混じりあうような、そんなものを見ているのだろう、と考えていると。


 「寒いよ」


 と友人が遮るように声を出した。日は沈んで、空気は冷たくなり、友人が寒そうに立っていた。暗くなった海岸線の路肩にぽつんと私の車が停まっていた。そうだ、小山が待っているのだ。


 車を走らせて店へ向かう。小山は店に着いているらしい。そう説明する友人の中に少年の面影はない。影は光に照らされるし、光は影に包まれている。私は、小山の中にも影を見るし、小山の中にも少年や少女、憧れ、羨望、喪失、失望、あの顔やこの声、未だ見たことがない、見てこなかった何かを見ていると思う。


 けれど、それは三人の時には起こらない。三人の時はもっとごった返した場の中にいる。そして、店に着く頃には、こんなことは忘れてしまうだろう。街の雑踏を歩けば、夕日も、朝日も関係ない。


 車が街中に入ると、影と光のコントラストが強すぎて、何かを映し出す気配はない。賑やかで、騒がしく、影や光など気にする余裕はない。ただ明瞭に現れたものだけを現実だと思い込んでしまう。現実にないものさえも。それは、それでいいのかもしれない。想定できない未来は来ないも同じだからと、まだごまかせるのだろう。不安で思考停止するよりは。しかし、深夜を過ぎれば、過去は未来を照らし、未来は過去を包むだろう。少年は愛すことを学ぶために愛され、少女は愛されることを学ぶために愛す。もちろん少年と少女、女と男だけでなく、誰もが、何もが、互いが互いを補う時、現在が垂直に重なる時、外側も内側も、前景も後景も、空も大地も、光も影も、一緒くたになって、瞬間と永遠の中では、友人は言うのだろう。



 「朝日を見にいこう」


 と。そして、小山もまた朝日を見たがるのかもしれない。静寂の中で、やってくる何かを待つために、車を海に走らせるのだった。