「隔絶、壁、追放」

 私達は、事象を切り取らなければ、それを扱えないが、それはそのもの自体ではないし、私の切り取り方が他者を毀損する怖さを含んでいる。この怖さは、切り離された私自身の不安を喚起させ、その隔絶の壁を固く閉ざしたものにしてしまう。そして、万能的で排他的な考えに陥り、孤立してしまう事がある。
 隔絶の壁は、恥や罪悪感を取り込み、より強固なものとなり、私の視野を狭窄させ不安を喚起させる。そして、内外に向けられた非難が、壁を現実化し、現実化した壁が私を孤立させていく。私の名誉は、私と関わる他者との間で祝祭として現れるが、隔絶の壁は他者という多数性の視座を不可視にしてしまう。
 そうなってしまうと、安心の為の壁が私を隔絶し、自己矛盾が、際限なく私自身を傷つけ、どこに居ても誰といても底抜けの不安に襲われてしまう。そうした隔絶を架橋するには、私自身の原初なる不安や欲動を思い遣り、私自身を労る事を育む必要がある。私が追放した、私を解放できるのは、私自身だから。