「過剰物、便利さ、不自然さ」

 本来、社会は分有によって成り立っていたけれど、それが配分となり、貨幣が土地と財産を切り離したことで、より私有が進み、資本という過剰物を再生産する仕組みと、それを物質的に行き渡らす物流と、言語で切り取られた情報として拡めていくネットワークが編成され、過剰物で構成された社会が現れた。
 過剰物は、太陽の温かさや、木漏れ日の居心地、渇きや汚れを洗い流してくれる水といった自然のように、環境として私達に便利さを提供てくれる。それ故に、快適さと便利さは混同しやすい。それは、生産の副産物だったもの、生産のための道具だったものであり、本来は不自然な過剰物だった環境といえる。
 こうした過剰物は、私達の生活に行き渡り、私達の社会を支える制度して運用されているようにみえる。しかし、こうした過剰物の動きや加速していく有り様を予測・制御し適切に運用する事は叶わないかもしれない。また、快適さと便利さの混同は、幸せに関する誤謬と新たな偏見や格差を生むかもしれない。