「空白、余白、純粋過去」

 時間を潰す、暇を持て余す、間が持たない、など空白や余白を言い表すような言葉はあるが、空白や余白自体を考える事は難しい。私達は、時間や空間を可視化し、区切る事で、間接的に扱っている。しかし、空白や余白というものは、不在や未知に関するもので、直接的に扱う事はできないものだといえる。
 意識が認識できない空白や余白、時間や空間に意識しかねるものを充満させる、無意識に何かを溜め込む。それは習慣や学習になる前の、知覚や反応の素になるような意味を持たない何かである。私達が意識によって所与される過去は、本来の過去によって所与される過去ではなく区切られた過去の余剰である。
 過去の余剰ではなく、過去自体、純粋過去があるとしたら、そこに時間や空間が成立するのかもしれないが、それ自体は直接的に触れる事はできない。私達はそれを出来事の中から流れとして、痕跡から既視感のような混乱として眺める事しかままならない。その眺めは中心化から脱した俯瞰により所与される。