「食べる、欲望、欲動、存在」

 誰かが作った料理を食べる誰かがいる事のように、誰かが食べたものを覚えている誰かがいる事は、幸福な出来事かもしれない。食べる事の記憶は生の記憶でありながら、死も含んでいる。生きていく、それ事体のように。そこでは、どれだけ食べたかは問われず、生命が生命をどのように食べていたかが問われる。
 私達は、意味があるから食べる訳では無い。空腹になり、それを満たすものが顕れ、それを手に入れ、ただ食べる。意味を求めて何かを食べる事は欲望で、ただ食べる事は欲動だ。だから、食べる事は性的な快楽に似ている、欲望と欲動が入り混じっているからだ。ただ食べる人の仕草は、胸を打ち、記憶になる。
 そして、そこには嗅覚、視覚、触覚、聴覚、身体感覚があり、存在していた生命を生命が食べるという事実がある。かつて生命だった食べ物、それは加工されてこそいるが、この世界に存在していた生命だったものである。そして食べる時は食べる事自体を考えない、食べる事を考える事は食べる事を阻害する。
 空腹があるのに食べれない時は、何かを考え過ぎているかもしれない。それは思考のイメージが食べる事以上の意味を含み、その判断の気分による不安が、ただ食べる事を阻害しているのかもしれない。ただ食べる事は、ただ純粋に存在している。味自体、食べる事自体との融合と調和、そして自分以外の摂取と排出。