「言葉、信じる、祈り、連帯」

 言葉の力というのは、何かを切り取ったり、意味を映したり摸したり移したり、何かと何かを結びつけるだけではなくて、言葉の力を信じる事によって、言葉が蓄えている種から芽が出て、その芽を育てていくような、事物と精神の折衝から顕れる過程に委ねて、その成長を見守るようなところがあると考えるようになってきた。
 言葉を信じるとは、未来が保証されるものではなく、ある未来を想定し、その未来との約束に向かい投企している、あるいはそうならざる得ないと拘束されている状態と考えられる。その未来への想定は、理念や前提となり、行為を方向づけ、その行為の積み重ねが実践となり約束を実現する。まるで無意識が想定した通りの未来へ着地するように。
 祈りは、願い事を叶える形式ではなく、願いに向う実践をするための表現である。その表現は、願いが達成された未来に向けて進む小さな行為であり、その積み重ねが実践となる。そして、その未来は言葉や時間の流れから開放されているし、その願いは起こり得ない奇跡ではなく、本来なら充足されるはずの期待が達成される未来である。
 そうした未来は、周りからも承認されるものであり、むしろ周りが称賛するものである。その達成した未来を皆で願う行為が連帯であり、その未来に向けての協働的な実践が連帯といえる。だから、連帯は未来を分有するだろうし、その実践は集団での活動になる。しかし、思い描く個別の未来の形はそれぞれが異なり、干渉し合っている。だからこそ、異なる者同士が、安寧な未来を信じ祈り続けるのだ。