現象は精神している。

 食事をしていると、ふとした瞬間に食べ物の味だけでなく、食器やスプーンの質感が自分の身体に感じられることがある。お酒を嗜む時に器の飲み口によって味が変わったり、アイスを食べる時にスプーンの形状によってアイスの味が変わったりするように、人間は味だけでなく、質感や色や匂いなどのいくつかの知覚を総じて、美味しいとか、不味いとか、もっと食べたい、これはもう食べたくないなど、認識、判断、解釈していると考えられる。そして、味ではなく、食器やスプーンという物体自体の質感が身体で知覚されることを、不思議がる人はあまりいないかもしれない。しかし、自分の身体の感覚ならまだしも、自分の身体の外にある物体自体の質感が知覚されるというのは、一体どういうことなんだろうかと考えてみることもできる。
 私達の身体は、自分の内側にある臓器などの、内蔵感覚を感じられるようにできている。また、こうした内部感覚とは別に、肌を通した触覚、耳を通した聴覚、鼻を通した嗅覚、口を通した味覚といった外側にある物体を身体で感じられるようにもできている。では、こうした知覚は、私の身体の内側だけで起きているのだろうか。もちろん、神経物質などの分泌されるものがあることを考えると、その反応は私達の内側で起きているといえる。しかし、それは外側への反応であり、物質と私達の精神が関わりを持つ時に、実際は私達の身体の外側で起きていて、それを内側で感じられていると考えることはできないだろうか。
 つまり、物質と精神が交叉するときに、その物質の質料が精神として感じられたり、精神が物質として反応したりと、交叉したり、反転したりしているのではないだろうかということである。実際、私達は食事をするというひとつの出来事を経験している時、内側と外側、物質と精神、主体と対象、知覚と運動、などを明確に区別しているわけではない。出来事の経験は、出来事の中でこうした区別は無く、物質も精神も相互に働きかけながら、出来事の流れの中に没入していると考えられる。そして、出来事の経験の媒介として、快楽や感情のような表現を身体の内側で感じている。そして、実際の現象は、出来事の中の、身体の外で起きていると考えることはできないだろうか。
 身体の外側、潜在的な内側の活動が関わる、外延的な現実の現象、物質的な働き、それに対して精神は身体から離れて自由になろうと物質に働きかける。こうした出来事の中では、区別される以前のいくつもの関係性や無関係性のネットワークが起きていて、それを私達の身体が知覚し、意識が認識、判断、解釈しているのではないだろうか。それは出来事の一部分、一側面に過ぎず、実際には物質と精神は交叉反転しながら、様々なスケールや階層性を持った関係性のネットワークを組織、分離しているのではないだろうか。つまり、精神が現象するのではなく、現象が精神している、それを内側から、たまたまこのように感じられていると。(1220文字)