無人島の記憶と言語の消滅

原文
 私というのはひとつの無人島である。主体化された動物(※1)がそこで活動し、群れが社会(※2)を形成し新たな形態を得たとしても、欲望(※3)を主体化された点が所有することはない。そもそも、その欲望は主体化された点が所有していたものではなく、異なる主体化された点が志向していた、ひとつの記憶(※4)だったのかもしれない。そして欲望は姿を変えて、異なる点に出来事を投げかけていくのだろう。この時の記憶は内部と外部にあり、分有されうるものでありながら、外部を折り込むことで内部に折り込まれたひとつの形態の在り方に働きかける。それ(ら)は、無人島に現れたひとつの記憶であり、いくつかの記憶でもある。そして、言語(※5)が消滅する時にその記憶も忘れ去られて、ひとつの無人島が現れるのである。

註釈
※1 主体化された動物
 主体と主体化は異なる。主体はある傾向、あるいは志向性を持った点を指す言葉であり、主体化はある現象が環境に対して能動的に働きかけた(ように見える制限された上での自由な動き)様態を示す言葉である。

※2 社会
 動物に社会はあるのだろうか。自然の中で暮らす動物には動物の社会があり、人間の社会の中で暮らす動物には、人間のような社会があるのか、それとも動物のような社会があるのだろうか。あるいは昆虫の、蜂や蟻のような群体の本能を社会と呼べるのだろうか?

※3 欲望
 欲望するには他者を必要とする。あるいは模倣する対象があってこそ欲望することができる。それは、その時点で模倣であり、欲望そのものでない。自らが何を望んでいるかを知ることは難しい。おそらく、それは自らの傾向、あるいは志向する状態を知ることだからである(ハビトゥスとコナトゥス)。

※4 記憶
 記憶を個体の内部のなかにみるのか、個体の外部にみるのかで世界の在り方が変わる。それは既にグレゴリー・ベイトソンが「形式・実体・差異」で、プレローマとクレアトゥーラという概念をもちいて述べていることである。

※5 言語
 言語と記号は異なる。言語は、それを同じものだとみなし、それを伝達(贈与・交換・返報・分配・再分配)しようとする。それと、同時に表現と操作を伴いながら、交錯する心象やイメージ、欲望を介して、表層的に現れる皮膚のようなものである。それに対して記号を深層とみなすのは早急である。しかし、記号は、記憶ともに思考の源泉ではある。言語の同じものだとみなす働きを、類推(アナロジー)と呼ぶことができるかもしれない。隠喩(メタファー)[圧縮]と換喩(メトニミー)[置き換え]だけでなく、提喩(メトニミー)[包含関係]、象徴(シンボル)[秘密]、寓意(アレゴリー)[風刺]、逸話(アネクドート)[自由間接話法]なども、知性が身体の外へ手を伸ばしどこまでも自由になろうとする時の、伸ばした手の先の動きのようなものかもしれない。