対人援助の人文知との再接続に向けて

問題と目的
 人を助ける、援助するという事が人間社会の中の制度となった歴史は、医療や法律といった人間社会の古くからある制度に比べ新しくまだしっかりとした構造とはいえないと考えられます。古くは、宗教がその多くを担っており、寺院や教会などの施設では、神の代わりに手当て(care)と、歓待(hospitality)をしていたと考えられます。また、法律の制度の成り立ちからは神の代りに人を裁くという、神(権威)の代行者(あるいは預言者)という構造をみることができます。
 例えば、対話による援助技術のひとつであるカウンセリングでいえば、パーソンズらの職業ガイダンス運動、ピアーズの精神保健運動、知能検査の発展といった社会的な活動があり、その中でカウンセリングの理論や技術も発展しています。その歴史には、経済発展による効率化や、兵役に関するもの、尺度を設定し個性を測る、という面がみられます(※1)。
 また、ケースワークやソーシャルワークのような福祉における相談の援助技術にも社会的な活動の歴史があり、こうしたケースワーク、ソーシャルワーク、カウンセリングといった対人援助の技術は、医療や法律に比べ、その構造が新しく検討すべき課題がある点(見方を変えれば改善できる可塑性があるとも考えられる)と、その活動自体が曖昧で不確実な点を多く含み、その活動を評価をすることが難しいと考えられます。さらに、ここに精神療法、心理療法、コンサルテーション、スーバーバイズ、心理検査、知能検査、発達検査、療育、相談支援の計画書作成、なども加えるとより複雑になってきます(※2)。
 そして、こうした対人援助の理論や技術は、基礎づけられる学問や生まれてきた背景も異なる為に、ひとつの学問体系や共通認識で語る事が難しく、アセスメントという作業ひとつとっても様々で、多職種の連携を阻む要因ともなっています(※3)。また、援助を利用される方の時間経過やライフサイクルによって必要な援助も変わっていきます(※4)。本論では、こうした制度的な土台の脆弱さとその活動自体の曖昧で不確実性を含む対人援助の活動を、①《援助と管理》、②《看護と介護》、③《学問と権威》、というの三つの視点から考察し、人間社会の中で行われる対人援助が、人文知と再接続することの必要性について検討する事を目的とします。

《援助と管理》
 対人援助という職につく者は、援助と管理ということに悩まされる事が多いと想像できます。例えば、施設の職員は、利用者に援助を提供しつつ、安全や健康を守る管理という二重の役割を担う事になります。そして、そこで行われる援助自体も実際には社会制度に管理されており、自分が利用者の援助の為のに管理をしているのか、社会の管理の代行者としめ管理しているのか分からなくなる事もあると考えられます。
 対人援助とは、こうした二重性(河合隼雄がいう所の《二律背反》)と矛盾を含んだ実践であり、その中でどのように展開(自己組織化と冗長性の問題)していくのかが課題となります。しかも、展開自体が今後の制度の起点となり、また制度自体も、対人援助の展開の起点であると考えられます。また、こうした問題は、哲学で議論されてきた《自然と制度》、《自然哲学と形而上学》、《内包と外延》、《対象と主体》、《内と外》、《観念論と経験論》、《実在論唯物論》などの議論も関係しているとも考えられます。

《看護と介護》
 看護と介護からは、医療と福祉という領域、治療と生活という行われる場所、看護師と介護士という職種などが連想されます。また看護と介護の両方には、治療の支えに伴い行われるのか、緩和の支えに行われるのか明確には切り離せない機微があります(※5)。そして、ここには人間が誰しも歳を経て、いつかは死を迎えるという事実にも関係してくることも考えられます。それは、回復や発達の過程を支えるのか、老衰や喪失の過程を支えるのかという違いがあると考えられます。
 また、看護と介護で共通する面としては環境を整える事があげられます。ナイチンゲールの自著では、何度も換気の話が出てきたりとすることからも、生命力を妨げない為の環境を整える事は重要だと考えられます(※6)。

《学問と権威》
 学問には、基礎的な学問と応用的な学問があります。例えば、医学には生理学や生物学という基礎的な学問群があり、より臨床実践に近い応用的な学問群があると考えられます。こうした、ひとつの専門領域の学問体系は、医療、法律、教育などから制度化されており、そこには社会とそこで暮らす人間が持っている認識論からの影響も関係しています。また、学問の多くが先行研究から発展させていく形態を取る為に、学問が権威づけられることがありますが、昨今の家父長制度の文脈で使われるような他者を搾取する権威ではなく、ひとまずの基礎づけ(作業仮説の土台や研究・訓練の方法)となる権威(あるいはフーコーがパレーシアの文脈でいうような自らの力を律するため権威)と解釈するならば、学問自体が暴走する事(戦争や不誠実な人口の統制に加担する事を含めて)を止める為に必要に不可欠だとも考えられます。
 しかしながら、人を援助するための学問の概念や医療の診断、社会に流布した言説などが、人を傷つけることもあります。対人援助でいえば、援助をするための概念が、援助を必要とする人を作り出す事になりかねないといえます。人の能力を測定する事の目的も深く追求していけば倫理的に許されざる考えもあるはずです。また、生政治の統制としてインフラ(水や食料、電気など生命を維持するのに必要不可欠なもの)や交通(人間の移動や住む土地の選択)が管理される事が危惧されていますが、構成概念によって定義された人間の個人的の特徴(尺度や変数)が測定され分布される事も、危惧する点はあると考えられます。
 しかし、測定する事、数値化する事自体に問題がある訳ではなく、その使われ方と流布仕方に問題があると筆者は考えます。対人援助も結果を評価出来なければ、それはまた社会の中で行われる行為として問題となります。エビデンスとナラティヴの対立ではなく、その両方が必要なのです。例えば、心理学では、構成概念から再現性や実証性を考慮した方法による実験研究を行い、そこから臨床にも有用な作業仮説を導いていきます。ただし、再現性や整合性などを考慮すると、どうしても現象そのものは扱えない所があります。そこで、敢えて切り落としてしまったものがあるのではという点です。それが、おそらく哲学でいう所の《存在論》ではないかと考えられます。

人文知との再接続
 これまで述べてきたように、対人援助では、《援助と管理》、《看護と介護》、《学問と権威》といった三つの視点が重なっており、二重性と矛盾を持ちながらも、両立している所があります。こうした理解の仕方は、哲学や神学のような古代から連なる人間の認識論の変遷から学べる事があると考えられます。1800年代の後半から、哲学や神学だけでなく、精神医学、心理学(筆者としては、学習心理学発達心理学が臨床の要になると考えています)、社会学、人類学、言語学、といった人文知が展開しています。現在の私達の認識論は、こうした人文知に多くの影響を受けているはずです。つまり、現在の学問の基礎づけの変遷(歴史性と地理性)に再接続することは、自らの学問(専門領域)を解体し、再考する事にも繋がります。そこには、法律や教育といった人間社会の制度について検討する必要性があります。加えて重要なのはこうした人文知との再接続の(自己の学問を検討することで一旦解体し再構成しなおす)過程があるからこそ、自然科学や新たな基礎づけとなるようや学問と対話が可能になると考えられます。ソーカル事件で追求された科学の乱用ではなく、自らの学問を基礎づける為であり、それが人間の幸福と共存を考える人文知(哲学や神学とは違った第三の知として)から得られる学びだと考えられます。

まとめ
 本論は全体的に抽象的な所があり、論的が具体的になっていない為、最後に補足という形で論点を箇条書きにして終わります。

1. 対人援助は、援助と管理というような二重性と矛盾を含むものであると考えられる。

2. 対人援助の実践は、人間の社会の営みの中で行われる為に、社会の制度から規定されると同時に、実践が制度を規定すると考えられる。

3. 故に、社会をより包括する国家(国家自体が含む領域、言語、宗教、経済、制度も含む)という主権の在り方と、対人援助の在り方は相互規定していると考えられる(ここで教育の重要性が問われてくると考えられます)。

4. 対人援助の現場で体感される矛盾は、利用者の苦悩と困難となる社会構造の歪み(格差や差別)であり、行き過ぎた生政治の管理をフィードバックしている考えられる。

5. 対人援助で用いられる概念は、利用者や援助者をに作業仮説を与えると同時に、その作業仮説に制限してしまう可能性があると考えられる。

6. 人文知で問われてきた議論は、人間における認識論や主体についての考え方の変遷であり、人間の行き過ぎた傾向に対して踏み止まろうとする可塑性があると考えられる(※8)。

7. 人文知に再接続する事で、対人援助という学問(実践)の再構成につながると考えられる。その上でこそ、自然科学や新しい学問領域との有効な対話が可能になると推測される。


注釈
※1 『産業カウンセリング 産業カウンセラー養成講座テキスト』産業カウンセラー協会、ドナルド・ショーン『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える』ゆみる出版、國分康孝『カウンセリングの理論』誠信書房、を参照にしています。

※2 医療や福祉の現場でリハビリテーションが普及したのは、基礎的な理論が医学のように基礎づけが明瞭であり、医療や福祉の制度、特に保険点数に加算されるという制度的な土台がしっかりとしていたのも要因ではと筆者は考えています。

※3 参考文献として、吉川悟編『システム論からみた援助組織の協働』金剛出版、があげられます。

※4 参考文献として、鈴木晶子「ひきこもり支援の地域支援の現状と課題」東京大学学術機関リポジトリ、があげられます。

※5 こうした区分けは、二項対立ではなく、二つの側面がスペクトラムにつながっていると考えられます。中井久夫『看護のための精神医学』医学書院、の「医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ」言葉は、看護の話としても、介護の話としても読む事ができます。

※6 ナイチンゲール『看護覚え書き』現代社、などがあげられます。

※7 この可塑性は、アーレントの考える思考(現実に根づいて自分とは違う立場を吟味しながら、一ではなく複数性とてして考える)や架橋し和解する能力に近いと考えられます。