歳をとると、意識が遠隔的になっていくような気がしている。若い時は近接的な未来や人間関係に意識を向けているが、年老いていく時は子より孫へ、隣人より離れた人へと、遠隔的に意識を向けているように感じる。もちろん、三世代くらいの間隔、一度は行ったことがある範囲でという限界はあるだろうが。
若い時は自分がこれからどうなるかという不安があるように、老いていく時は自分がいなくなった後にどうなるのかという不安があるのかもしれない。自分が存在している事はひとつの問いだが、自分がいなくても世界が存在していた、していく事もまたひとつの問いだと思う。存在の問いから不在の問いへと。
そして、同胞も老いていく。同じ記憶を分有していたものたちが去っていく。そうなる前に、離れたものたちの顔をもう一度見たい、見せたいという気持ちは強くなり、周りの人を驚かせる程に人や土地に会いに行く、一目見ようとするのだろうか。世界とわたしの繋がりを確かめるように。綻びを繕うように。
あなたが、わたしの手を握り返す時、わたしもまた、あなたの手を握り返している。どこか、遠くへ、離れてしまったわたしの意識が、触れられている温もりとともに、今、ここへ、戻ってきて、あなたと、世界と再会している。それは瞬間であり、永遠のひとつのモーメント、いくつかの可能性、流れの断面。
記憶の収縮と弛緩、その動きの断面、年輪、樹に流れる水は縦に、時間は横に流れる。その断面としての、瞬間、永遠、モーメントがある。今、ここで、過去と未来に分裂していく、意識の先端が、近接的な未来/過去へ、遠隔的な過去/未来へと意識を向ける。そして、流れていく意識は、記憶の途上にある。
未だ、何かが足りていない、その何かが何を意味するのかを知らない中で、わたしは再会する。モーメントの中にはすべてがあり、すべてが足りていない。しかし、握り返した手は、温もりは確かな感覚で、ありありと感じ取られる。あなたの手が、関係が、今、ここで、包み込み、繋がりを感じさせているのだ。