「知る、理解、和解」

 「知る」ということは、難しい本を読むことや知識を増やすことではなくて、自分ではない存在や自分の理解が及ばない世界があること、それを思い遣り、その違いを受け入れ、立ち止まり吟味すること、そうした他者や事物、この世界との関係の仕方が、「知る」ということだと思います。
 それは、はっきりと区別ができることではないかもしれないし、受け入れ難いことかもしれない。納得がいかないことであれば落ち着かなくなるだろうし、あまりに辛いことは言葉にならない。だから、忘れるということができるし、だからこそ、忘れられなくて苦悩するのかもしれない。あまりにも苦痛な体験は理解の範疇を超えて、意識の記憶ではなく身体の記憶として刻まれてしまう。それは心の傷かもしれない。 
 それが何かということは、「知る」ことができて、はじめて知るという体験となる。なんだこんなことだったのか、と腑に落ちる。その時、充満していた受け入れ難さや居心地の悪さ、拒絶して消し去りたい攻撃的な衝動、触れたくない恐怖によって高まっていた圧力がふっと下がる。そう、「知る」ということは、他者や事物、世界を理解して和解することなのかもしれない。