「自我、集団、国家、利便性」

 ひとりの人間で起こる自我のパーツ間の批判・追放・障壁・遊離/離隔化といった現象と、社会という集団間で起こる暴力・差別・格差・無力/透明化といった現象と、国家間で起こる侵略や略奪・言葉や文化の禁止・壁の建造・領土の区画/空白化といった現象は、その働きにどこか似ている印象を思わせる。
 私の中では《個人の痛み》と《社会で起こる事件》と《国家間の戦争》は、階層性を持った連続体で、異なる階層に属する要素が相互に規定し合っている、あるいは溶け合っている、という見方で世界を捉えている。だからこそ、トラウマや依存症の問題が世代間に渡る苦しみであったりするのではないだろうかと思う。
 国家は、土地、民族、言語、制度、市場により規定されていて、国家自体も、国家間を取り巻く階層性に規定されているようにみえる。換言すると、人間が自ら作り出した、国境、経済、科学に、人間自身が規定されているように、どの階層性でも、境界、干渉、利権、が階層性の規定に関係しているようだ。
 そこには《直接的なものと間接的なもの》と《必要量と過剰量》という二つの混同が関係している。例えば、他者の欲望と自分の欲望を混同しやすい現象、市場で消費される以上に過剰な生産をする事で経済が成立している現象、があげられる。それは、言葉と道具を作り出した人間が、言葉と道具に使われているような利便性による倒錯かもしれない。