思惟本性と思惟作用:魂・精神・意識

デカルトの有名な命題は

リアルって何やねん!って、思っている我はリアルやから、ほなそこからリアル始めよか!

って、ことなんだろうか?
→「方法序説」はフランス語で書かれたので、人口に膾炙しているラテン語は訳者によるものらしい。この辺りは、「方法序説」「省察」(ちくま学芸文庫)を読んでしっかり理解したい。

仏教が思考を停めることで我を忘れるのに対して、デカルトは思考していることによって我を特異点としたようにみえる。思惟本性と思惟作用、健忘による気づき、知覚と運動への注意、外界に定位する意識。

リアルに我を定位(限定)させて、そこから確実性を探求している?
→我を現実に定位させる。場所に自分を据える(北山修「自分と居場所(日本語臨床の深層)」岩崎学術出版社を参照)。そこに居る自分の感覚や体験、外界との相互作用が組織化され自己というまとまり(ひとつのシステム)が形成される。


デカルトのキーワード

思考―延長

心身二元論松果体、懐疑、渦動説
松果体は、現代ではトンデモ扱いをされることもあるようだけれど、精神と物質の二重性と反転を考えるには、現代の議論の架橋となるのでは?(エリザー・J・スタンバーグ「なぜ宇宙人に誘拐されるのか? 自我を形作る『意識』と『無意識』の並列システム」竹書房を参照)。

実体―属性(内属)→機械論的?それとも自己意識?

スピノザのキーワード

心身並行論、コナトゥス、変様、神即自然

実体―様態(存在)→表現の問題?外から規定される?

必然的な内包による自然

永遠と持続(運動/停止)、実体と様態

他のもの―すなわち実体の―内にある

デカルトからスピノザについての問い

デカルトスピノザの受動の取り扱いの違いとは
デカルトは意識の注意(思考)について、スピノザは無意識(自然/感情/感覚)の気づき(変様)について述べたと仮定するのなら→さらにベルクソンの〈知覚イマージュ―運動イマージュ〉、〈動的図式―運動図式〉、〈注意的な記憶と気づき的な記憶〉にも繋がるのでは?(平井靖史「世界は時間でできている:ベルクソン時間哲学入門」青土社を参照)デカルト自身の感情については「情念論」を読んでおきたい。

デカルトの理性とスピノザの知性の違いと、発揮と充足についてをどのように捉えるか
スピノザ自身がデカルトの読者であり、デカルトからスピノザへ繋がる哲学をライプニッツが崖っぷちで、調和として捉え直しているのでは(上野修「哲学者たちのワンダーランド 様相の十七世紀」講談社を参照)?

自己原因は自由意志の問題へ繋がるのか
ホッブズスピノザ、ルソー、カントの政治哲学にも繋がるのでは(國分功一郎「近代政治哲学―自然・主権・行政」ちくま新書を参照)?

ベルクソン生の哲学)やベイトソンアメリカの思想)との繋がりはあるのか
→発生やコミュニケーション、情報処理(アンリ・アトラン「煙と結晶のあいだ↝:生物体の組織化について」法政大学出版局を参照)、脳の統一理論として考えるとどうだろうか?
※とはいえ、基礎研究の成果を安易に臨床に結びつけて自説(仮説)を強めたところで、何十年、何百年も経てば、その自説(仮説)は有用でなくなるかしれない。また、大規模言語モデルと生成AIが発展していけば、アルゴリズムの意味を知らなくてもプロトコル(技術)が運用できるようになるのかもしれない。ベルクソンベイトソンが仮構作用として考えていたもの、精神のチャンクについても要検討なのかもしれない。