ドゥルーズの非人間主義

 範疇(カテゴリー)と階層(ヒエラルキー)を峻別すること。しかし、それらが交錯することもある。そして、それらは接続(série)・連接(在立)・離接(出来事)する。それは、プレローマ(力と衝突)とクレァトゥーラ(差異)の交錯ともいえるし、意識と言語の成立条件とも考えられる。
 内包の説明として〔連合〕を、外延の説明として〔随伴性〕を援用する時、両者を対立させるのではなく、潜在(内包)/現働(外延)に働く、パラドックスを伴う二重性のカップリング〔知覚ー運動など〕とし、その媒介として効果(表現)〔感情、意識、時間など〕が現れ、連結の基準(超越性、俯瞰、メタ情報、差異の差異)となり得ると仮設を立ててみる。

近い未来の来訪者と遠い未来の来訪者

 人間は誰しも未来のイメージを持っている。おそらく、この先こうなっているであろう…といった未来のイメージを前提として、「今、ここ」で起きている出来事に注意(関心)を向けて、外界を知覚し、状況を理解し、情報を選択しながら行動している。こうした個人の生に由来する未来には、様々な来訪者が現れる。それは現実に生存する他者から死者、想像上の人物から事物までも含まれるのかもしれない。

 もう一方で、個人の生を超えた未来には、超越的な他者、人間の認識を超えるような存在、あるいは形相的な実体が訪れるのかもしれない。そういった遠い未来の来訪者を、私達の祖先は待ち望み、その旨を様々な形で書き残したり、言い伝えたりしている。それは、「何時か、何処かで」現れる未来であり、信仰され伝承されることで、その関心(注意)が遠い未来まで持続している。

 人間の個としての注意(関心)と、種として関心(注意)は、近い未来の来訪者から遠い未来の来訪者まで、様々な次元で現れる。言い換えると、それは生まれた土地、個人の出自から地続きに現れる来訪者なのかもしれないし、土地から離れた、あるいは時間や空間を超えて現れる来訪者なのかもしれない。

 おそらく人間は、未来、あるいはこれからやってくる不確実な来訪者に対して注意と関心を向けている。そして、注意と関心は、前提となる未来のイメージという参照枠から向けられ、その参照枠は、外界、環境、状況、文脈といった世界の外枠に定位している二重の枠となっている。この二重の枠と、注意と関心といった向けられるものが相互に支え合いながら、世界を行為と知覚によって立ち上げ、来訪者を迎えるのである。

対人援助の人文知との再接続に向けて

問題と目的
 人を助ける、援助するという事が人間社会の中の制度となった歴史は、医療や法律といった人間社会の古くからある制度に比べ新しくまだしっかりとした構造とはいえないと考えられます。古くは、宗教がその多くを担っており、寺院や教会などの施設では、神の代わりに手当て(care)と、歓待(hospitality)をしていたと考えられます。また、法律の制度の成り立ちからは神の代りに人を裁くという、神(権威)の代行者(あるいは預言者)という構造をみることができます。
 例えば、対話による援助技術のひとつであるカウンセリングでいえば、パーソンズらの職業ガイダンス運動、ピアーズの精神保健運動、知能検査の発展といった社会的な活動があり、その中でカウンセリングの理論や技術も発展しています。その歴史には、経済発展による効率化や、兵役に関するもの、尺度を設定し個性を測る、という面がみられます(※1)。
 また、ケースワークやソーシャルワークのような福祉における相談の援助技術にも社会的な活動の歴史があり、こうしたケースワーク、ソーシャルワーク、カウンセリングといった対人援助の技術は、医療や法律に比べ、その構造が新しく検討すべき課題がある点(見方を変えれば改善できる可塑性があるとも考えられる)と、その活動自体が曖昧で不確実な点を多く含み、その活動を評価をすることが難しいと考えられます。さらに、ここに精神療法、心理療法、コンサルテーション、スーバーバイズ、心理検査、知能検査、発達検査、療育、相談支援の計画書作成、なども加えるとより複雑になってきます(※2)。
 そして、こうした対人援助の理論や技術は、基礎づけられる学問や生まれてきた背景も異なる為に、ひとつの学問体系や共通認識で語る事が難しく、アセスメントという作業ひとつとっても様々で、多職種の連携を阻む要因ともなっています(※3)。また、援助を利用される方の時間経過やライフサイクルによって必要な援助も変わっていきます(※4)。本論では、こうした制度的な土台の脆弱さとその活動自体の曖昧で不確実性を含む対人援助の活動を、①《援助と管理》、②《看護と介護》、③《学問と権威》、というの三つの視点から考察し、人間社会の中で行われる対人援助が、人文知と再接続することの必要性について検討する事を目的とします。

《援助と管理》
 対人援助という職につく者は、援助と管理ということに悩まされる事が多いと想像できます。例えば、施設の職員は、利用者に援助を提供しつつ、安全や健康を守る管理という二重の役割を担う事になります。そして、そこで行われる援助自体も実際には社会制度に管理されており、自分が利用者の援助の為のに管理をしているのか、社会の管理の代行者としめ管理しているのか分からなくなる事もあると考えられます。
 対人援助とは、こうした二重性(河合隼雄がいう所の《二律背反》)と矛盾を含んだ実践であり、その中でどのように展開(自己組織化と冗長性の問題)していくのかが課題となります。しかも、展開自体が今後の制度の起点となり、また制度自体も、対人援助の展開の起点であると考えられます。また、こうした問題は、哲学で議論されてきた《自然と制度》、《自然哲学と形而上学》、《内包と外延》、《対象と主体》、《内と外》、《観念論と経験論》、《実在論唯物論》などの議論も関係しているとも考えられます。

《看護と介護》
 看護と介護からは、医療と福祉という領域、治療と生活という行われる場所、看護師と介護士という職種などが連想されます。また看護と介護の両方には、治療の支えに伴い行われるのか、緩和の支えに行われるのか明確には切り離せない機微があります(※5)。そして、ここには人間が誰しも歳を経て、いつかは死を迎えるという事実にも関係してくることも考えられます。それは、回復や発達の過程を支えるのか、老衰や喪失の過程を支えるのかという違いがあると考えられます。
 また、看護と介護で共通する面としては環境を整える事があげられます。ナイチンゲールの自著では、何度も換気の話が出てきたりとすることからも、生命力を妨げない為の環境を整える事は重要だと考えられます(※6)。

《学問と権威》
 学問には、基礎的な学問と応用的な学問があります。例えば、医学には生理学や生物学という基礎的な学問群があり、より臨床実践に近い応用的な学問群があると考えられます。こうした、ひとつの専門領域の学問体系は、医療、法律、教育などから制度化されており、そこには社会とそこで暮らす人間が持っている認識論からの影響も関係しています。また、学問の多くが先行研究から発展させていく形態を取る為に、学問が権威づけられることがありますが、昨今の家父長制度の文脈で使われるような他者を搾取する権威ではなく、ひとまずの基礎づけ(作業仮説の土台や研究・訓練の方法)となる権威(あるいはフーコーがパレーシアの文脈でいうような自らの力を律するため権威)と解釈するならば、学問自体が暴走する事(戦争や不誠実な人口の統制に加担する事を含めて)を止める為に必要に不可欠だとも考えられます。
 しかしながら、人を援助するための学問の概念や医療の診断、社会に流布した言説などが、人を傷つけることもあります。対人援助でいえば、援助をするための概念が、援助を必要とする人を作り出す事になりかねないといえます。人の能力を測定する事の目的も深く追求していけば倫理的に許されざる考えもあるはずです。また、生政治の統制としてインフラ(水や食料、電気など生命を維持するのに必要不可欠なもの)や交通(人間の移動や住む土地の選択)が管理される事が危惧されていますが、構成概念によって定義された人間の個人的の特徴(尺度や変数)が測定され分布される事も、危惧する点はあると考えられます。
 しかし、測定する事、数値化する事自体に問題がある訳ではなく、その使われ方と流布仕方に問題があると筆者は考えます。対人援助も結果を評価出来なければ、それはまた社会の中で行われる行為として問題となります。エビデンスとナラティヴの対立ではなく、その両方が必要なのです。例えば、心理学では、構成概念から再現性や実証性を考慮した方法による実験研究を行い、そこから臨床にも有用な作業仮説を導いていきます。ただし、再現性や整合性などを考慮すると、どうしても現象そのものは扱えない所があります。そこで、敢えて切り落としてしまったものがあるのではという点です。それが、おそらく哲学でいう所の《存在論》ではないかと考えられます。

人文知との再接続
 これまで述べてきたように、対人援助では、《援助と管理》、《看護と介護》、《学問と権威》といった三つの視点が重なっており、二重性と矛盾を持ちながらも、両立している所があります。こうした理解の仕方は、哲学や神学のような古代から連なる人間の認識論の変遷から学べる事があると考えられます。1800年代の後半から、哲学や神学だけでなく、精神医学、心理学(筆者としては、学習心理学発達心理学が臨床の要になると考えています)、社会学、人類学、言語学、といった人文知が展開しています。現在の私達の認識論は、こうした人文知に多くの影響を受けているはずです。つまり、現在の学問の基礎づけの変遷(歴史性と地理性)に再接続することは、自らの学問(専門領域)を解体し、再考する事にも繋がります。そこには、法律や教育といった人間社会の制度について検討する必要性があります。加えて重要なのはこうした人文知との再接続の(自己の学問を検討することで一旦解体し再構成しなおす)過程があるからこそ、自然科学や新たな基礎づけとなるようや学問と対話が可能になると考えられます。ソーカル事件で追求された科学の乱用ではなく、自らの学問を基礎づける為であり、それが人間の幸福と共存を考える人文知(哲学や神学とは違った第三の知として)から得られる学びだと考えられます。

まとめ
 本論は全体的に抽象的な所があり、論的が具体的になっていない為、最後に補足という形で論点を箇条書きにして終わります。

1. 対人援助は、援助と管理というような二重性と矛盾を含むものであると考えられる。

2. 対人援助の実践は、人間の社会の営みの中で行われる為に、社会の制度から規定されると同時に、実践が制度を規定すると考えられる。

3. 故に、社会をより包括する国家(国家自体が含む領域、言語、宗教、経済、制度も含む)という主権の在り方と、対人援助の在り方は相互規定していると考えられる(ここで教育の重要性が問われてくると考えられます)。

4. 対人援助の現場で体感される矛盾は、利用者の苦悩と困難となる社会構造の歪み(格差や差別)であり、行き過ぎた生政治の管理をフィードバックしている考えられる。

5. 対人援助で用いられる概念は、利用者や援助者をに作業仮説を与えると同時に、その作業仮説に制限してしまう可能性があると考えられる。

6. 人文知で問われてきた議論は、人間における認識論や主体についての考え方の変遷であり、人間の行き過ぎた傾向に対して踏み止まろうとする可塑性があると考えられる(※7)。

7. 人文知に再接続する事で、対人援助という学問(実践)の再構成につながると考えられる。その上でこそ、自然科学や新しい学問領域との有効な対話が可能になると推測される。


注釈
※1 『産業カウンセリング 産業カウンセラー養成講座テキスト』産業カウンセラー協会、ドナルド・ショーン『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える』ゆみる出版、國分康孝『カウンセリングの理論』誠信書房、を参照にしています。

※2 医療や福祉の現場でリハビリテーションが普及したのは、基礎的な理論が医学のように基礎づけが明瞭であり、医療や福祉の制度、特に保険点数に加算されるという制度的な土台がしっかりとしていたのも要因ではと筆者は考えています。


3 参考文献として、吉川悟編『システム論からみた援助組織の協働』金剛出版、があげられます。

※4 参考文献として、鈴木晶子「ひきこもり支援の地域支援の現状と課題」東京大学学術機関リポジトリ、があげられます。

※5 こうした区分けは、二項対立ではなく、二つの側面がスペクトラムにつながっていると考えられます。中井久夫『看護のための精神医学』医学書院、の「医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ」言葉は、看護の話としても、介護の話としても読む事ができます。

※6 ナイチンゲール『看護覚え書き』現代社、などがあげられます。

※7 この可塑性は、アーレントの考える思考(現実に根づいて自分とは違う立場を吟味しながら、一ではなく複数性とてして考える)や架橋し和解する能力に近いと考えられます。

無人島の記憶と言語の消滅

原文
 私というのはひとつの無人島である。主体化された動物(※1)がそこで活動し、群れが社会(※2)を形成し新たな形態を得たとしても、欲望(※3)を主体化された点が所有することはない。そもそも、その欲望は主体化された点が所有していたものではなく、異なる主体化された点が志向していた、ひとつの記憶(※4)だったのかもしれない。そして欲望は姿を変えて、異なる点に出来事を投げかけていくのだろう。この時の記憶は内部と外部にあり、分有されうるものでありながら、外部を折り込むことで内部に折り込まれたひとつの形態の在り方に働きかける。それ(ら)は、無人島に現れたひとつの記憶であり、いくつかの記憶でもある。そして、言語(※5)が消滅する時にその記憶も忘れ去られて、ひとつの無人島が現れるのである。

註釈
※1 主体化された動物
 主体と主体化は異なる。主体はある傾向、あるいは志向性を持った点を指す言葉であり、主体化はある現象が環境に対して能動的に働きかけた(ように見える制限された上での自由な動き)様態を示す言葉である。

※2 社会
 動物に社会はあるのだろうか。自然の中で暮らす動物には動物の社会があり、人間の社会の中で暮らす動物には、人間のような社会があるのか、それとも動物のような社会があるのだろうか。あるいは昆虫の、蜂や蟻のような群体の本能を社会と呼べるのだろうか?

※3 欲望
 欲望するには他者を必要とする。あるいは模倣する対象があってこそ欲望することができる。それは、その時点で模倣であり、欲望そのものでない。自らが何を望んでいるかを知ることは難しい。おそらく、それは自らの傾向、あるいは志向する状態を知ることだからである(ハビトゥスとコナトゥス)。

※4 記憶
 記憶を個体の内部のなかにみるのか、個体の外部にみるのかで世界の在り方が変わる。それは既にグレゴリー・ベイトソンが「形式・実体・差異」で、プレローマとクレアトゥーラという概念をもちいて述べていることである。

※5 言語
 言語と記号は異なる。言語は、それを同じものだとみなし、それを伝達(贈与・交換・返報・分配・再分配)しようとする。それと、同時に表現と操作を伴いながら、交錯する心象やイメージ、欲望を介して、表層的に現れる皮膚のようなものである。それに対して記号を深層とみなすのは早急である。しかし、記号は、記憶ともに思考の源泉ではある。言語の同じものだとみなす働きを、類推(アナロジー)と呼ぶことができるかもしれない。隠喩(メタファー)[圧縮]と換喩(メトニミー)[置き換え]だけでなく、提喩(メトニミー)[包含関係]、象徴(シンボル)[秘密]、寓意(アレゴリー)[風刺]、逸話(アネクドート)[自由間接話法]なども、知性が身体の外へ手を伸ばしどこまでも自由になろうとする時の、伸ばした手の先の動きのようなものかもしれない。

外在―ひとつの生

 無記名の、無所属のひとりの人間、立場も、役割りもない人間が書く文章を誰が読むのだろうか。それは壁に書かれた匿名のいたずら書きと変わらない、意味のない文字の羅列と考える人もいるだろう。その文章や文体、言葉やその間や拍子に魂が宿ると信じる人ならば、その文章の意味から魂が、そこに宿るのを見るのかもしれない。考古学者のように、その痕跡から、その人間が過ごした生活を、社会を、読み取ろうとする人にとっては、個人と集団がおりなす人間の文化を意味するのかもしれない。
 しかし、そこに個人の生は無い。ただ残された文章と、ひとりの人間は同じものではない。ひとりの人間の文章、それは文化の痕跡でもなければ、魂の存在でも無い、ましてや文字の羅列でもない。それは、ただの思考である。限られた、有限の、断片であり、切断された全体でもある。停止したひとつのsérie…
 そして、それが全てであり、書かれた文章それ自体はひとりの人間ではないが、ひとりの人間だったものだ。それは外在していた個人の思考の水路であり、生の縮約であり、主体化された動きが別の形態になったものである。それは魂であり、文化であり、文字の羅列である。在ったもの、既に無いもの、消えたもの、不在、空白、無記名、匿名、空の記号、それは意味そのものであり、その意味は読み手が現われるたびに、顕れる意味が揺れ動く。瞬間と永遠である。

頭骸骨と貝殻、波と砂、光、風、音。

  誰もいなくなった浜辺に、いつの間にか頭骸骨と貝殻が流れ着いている。砂の上に横になり、少しばかり砂に埋もれながら、光によって、その質感が照らされている。乾いたカルシウムのような物質である質感と、湿った艶かしさのある生物の一部だった質感が、妙に際立ってコントラストを放っている。そこに、波が押し寄せ、泡に包み込まれたり、泡の中から、再び姿を現し、光に照らされたりを繰り返している。
 砂は波によって形を変える、波も砂によって形を変える。海は地形によって姿を変えて、地形は海によって姿を変えていく。一瞬の生成と消滅、永遠のような長い時間の生成と消滅、諸力の系譜図、地層と地層が褶曲し、押し上げられたり、断絶したり、離隔した空間が生まれ、新たな地形が姿を現していく。そこには、光が照らされ、風が吹き、音が鳴っている。
 波の音が誰かの記憶を蘇らせる。それは、過去の記憶でありながら、蘇るたびに新しい記憶に書き換えられてもいる。物質の記憶は一瞬で連続しない、絶え間ない断絶は、物質を物質に足らしめる。生物による記憶の反復、記憶の連続は生物を生物足らしめる。生物は連続の中で、充足とともに展開する。自らの傾向を持って。そして、物質は自らの傾向が発揮される機会を待っている。砂、貝殻、頭蓋骨、どれも記憶だったもの、記憶の痕跡が世界に忘れられている。忘却。
 生物は思考している、位相幾何学的に。亀の甲羅の形、模様、色、反復が。蜘蛛の巣の線、領域、図形が。蜂の巣の構造、強度、空間が。生物の知性が思考した痕跡が、位相幾何学的に残されている。記憶の残骸は、建築物のようだ。貝殻や頭蓋骨は、建築物のように大地に埋もれている。忘れられた記憶、世界から忘却。連続体の解体、残った質感、生物の形態の象徴。
 波は引き続き、押し寄せ、引き返している。絶え間ない反復、記憶の無い持続、光、風、音が、世界の持続を物語っている。月と太陽、天候、物質、生物、人間、言葉、社会、さまざまな時間の単位の発生と消滅の過程、大きな時間の単位が小さな時間の単位を、小さな時間の単位が大きな時間の単位を相互包摂し、物質が生物を、生物が物質を、動物が植物を、植物が動物だった頃の記憶の痕跡をみせながら、そのものであることを、世界の中で照らしている。(947文字)
 

現象は精神している。

 食事をしていると、ふとした瞬間に食べ物の味だけでなく、食器やスプーンの質感が自分の身体に感じられることがある。お酒を嗜む時に器の飲み口によって味が変わったり、アイスを食べる時にスプーンの形状によってアイスの味が変わったりするように、人間は味だけでなく、質感や色や匂いなどのいくつかの知覚を総じて、美味しいとか、不味いとか、もっと食べたい、これはもう食べたくないなど、認識、判断、解釈していると考えられる。そして、味ではなく、食器やスプーンという物体自体の質感が身体で知覚されることを、不思議がる人はあまりいないかもしれない。しかし、自分の身体の感覚ならまだしも、自分の身体の外にある物体自体の質感が知覚されるというのは、一体どういうことなんだろうかと考えてみることもできる。
 私達の身体は、自分の内側にある臓器などの、内蔵感覚を感じられるようにできている。また、こうした内部感覚とは別に、肌を通した触覚、耳を通した聴覚、鼻を通した嗅覚、口を通した味覚といった外側にある物体を身体で感じられるようにもできている。では、こうした知覚は、私の身体の内側だけで起きているのだろうか。もちろん、神経物質などの分泌されるものがあることを考えると、その反応は私達の内側で起きているといえる。しかし、それは外側への反応であり、物質と私達の精神が関わりを持つ時に、実際は私達の身体の外側で起きていて、それを内側で感じられていると考えることはできないだろうか。
 つまり、物質と精神が交叉するときに、その物質の質料が精神として感じられたり、精神が物質として反応したりと、交叉したり、反転したりしているのではないだろうかということである。実際、私達は食事をするというひとつの出来事を経験している時、内側と外側、物質と精神、主体と対象、知覚と運動、などを明確に区別しているわけではない。出来事の経験は、出来事の中でこうした区別は無く、物質も精神も相互に働きかけながら、出来事の流れの中に没入していると考えられる。そして、出来事の経験の媒介として、快楽や感情のような表現を身体の内側で感じている。そして、実際の現象は、出来事の中の、身体の外で起きていると考えることはできないだろうか。
 身体の外側、潜在的な内側の活動が関わる、外延的な現実の現象、物質的な働き、それに対して精神は身体から離れて自由になろうと物質に働きかける。こうした出来事の中では、区別される以前のいくつもの関係性や無関係性のネットワークが起きていて、それを私達の身体が知覚し、意識が認識、判断、解釈しているのではないだろうか。それは出来事の一部分、一側面に過ぎず、実際には物質と精神は交叉反転しながら、様々なスケールや階層性を持った関係性のネットワークを組織、分離しているのではないだろうか。つまり、精神が現象するのではなく、現象が精神している、それを内側から、たまたまこのように感じられていると。(1220文字)