たとえ、心の底から赦すことを望んでいても、自分ではどうしても許せないことがあると思います。この場合の赦すとは、相手や事件を無罪放免にするとか、加害されたことを不問にすることではありません。言葉で表すことができない体験に関わることなので、それを言葉にしてしまうこと自体が暴力的に作用してしまうことも起こりますが、慎重に言葉にしてみたいと思います。
加害の意図や悪意の有無、災害や事故などの偶然性や必然性に関わらず、その人にとってのあらゆる暴力的な体験、そうした侵襲的な出来事から、失われてしまったもの、あったかもしれない未来、未だ訪れていない未決定であったもの、そうした可能性の喪失、自分自身に対する無力感や罪悪感、取り返しのつかなさによる無限に続く苦しみがあります。
そして、自分自身が持たざるものへの羨望や渇望、加害者や出来事に関わる人々への恐怖、恥、怒り、体験後の自分自身の扱われ方、他者との比較、あるいは境界の無さ、私秘性の無さ、所属の無さ、親密性の無さ、そうした事後に起きた取り返しのつかない、自分ではどうにもならなかったことのはずなのに、自分がどうすればよかったのかと自分を問い詰めてしまう自己否定の反芻、理不尽さに対する答えの無さもあるでしょう。また、自分の意思とは関係なく身体が反応してしまったり、恐ろしい体験やなんだか分からない不安感、消えてしまいたいような感覚が突然襲ってくることもあるでしょう。
こうした、言葉にならない、取り返しのつかなさ、どうしようもない無力感と喪失感、苦しみから、逃れたい、解放されたい、もう何もかもを認めて、受け入れて、赦したい、解放されたい、という気持ち。あるいは、助けて欲しい、けれど助けられたくない。助けられるとしたら、それは今までの自分を否定することではないのか、助けられることは自分の無力さを認めることでは、また誰かに支配されるのではという恐怖、そんな二重の不安や恐怖が気持ちや考えを縛りつけるような、そうした苦しみから、もう自由になりたい、楽になりたい、それができるならすべてを赦してしまいたい。そういった意味での赦すことについてです。
そういった意味、あるいは体験や出来事での、赦すことは、自分が赦したいからといって許せるようなもの、ではないものかもしれません。それは、自分だけの意思や能力でどうこうなるものではなく、気づいたら赦していたというような、事後的に報されるような体験になるのではないでしょうか。そして、赦すためには、その人の生存が安全安心できる状態であることが必要だと思います。その状態を4つの様相としてあげてみたいと思います。
※この4つの様相は、山森裕毅「ホームレス考 -〈家がない〉ことの諸相について」(『シリーズ人間科学8 住む・棲む』に収録)を参考にしています。
1点目の様相としては、その人の身体、心理、社会に関する適度な境界が安全安心に保障され、自分自身でその境界を訂正できること。2点目の様相としては、その人の感情や考え、これまでの生活史、社会に接するために必要な個人情報など、身体と心理と社会に関する、私的な領域が守られていること、もちろんこの領域の境界もその人自身が決められること。3点目の様相としては、その人が安全安心に、適度な関係性を持てる集団や組織、居場所などに所属できていること、そして、その人自身がその適度な関係に安全安心を感じ所属に充足を感じていること。4点目の様相としては、その人が安全安心して他者を招き入れる時間、場所、そうした招き入れが可能な親密な交流を持てる場を持てること。こうした4つの様相があげられます。
赦すためには、こうした様相、あるいは安全安心な状態が保障されていることが前提になると考えられます。また、1点目の様相はハウジングファーストを含むものであり、2点目の様相は守秘義務や合意形成を含むものであると考えられます。こうした様相や安全安心の状態無しに、赦すことは難しく、それをその人以外の人や集団が、その人へ許しを要求すること自体が暴力的に働く可能性があると考えられます。
それでは、赦すことは苦しみからの解放の為だけにあるのでしょうか。それだけの為に、4つの様相のような前提が必要なのでしょうか。おそらく、それだけではなく、もう一度、自分自身と、他者と、自分が根づく居場所と関係する為にということもあるのではないでしょうか。それは、自分が誰と一緒にいたいか、どんな暮らしをしたいかを選ぶことであり、安全な境界の中で、私秘性を守りながら、自分の立場や所属を得て、他者や社会と親密性を持つことかもしれません。それは、自分の中の様々な立場と、自分が大切にしている"もの"や"こと"に気づくことであり、自分の過去や出自、自分自身の生を赦すこと。それは自分自身が幸せになるのを赦すことなのかもしれません。