人間は、言葉が物にならないので、その代わりに心をつくった。心は区別し、定位によって、注意の方向性をつくりだす。そして、あたかも「私」が判断をしているかのような錯覚、目的と方法、原因と結果を見誤る。主客が分離をした主観の世界以前に戻るには「私」を離れる必要がある。
新しい学習するには、古い学習によって身についた定位を崩さなければならない。意識を逸らしたり混乱させたりする事、遊びや驚き、文脈(コンテクスト)への働きかけはその為に利用される。「私」がフレームを抜け出して一歩踏み出した時、新たな文脈から、新しいフレームを学習した「私」がいるのだ。
〈知覚−運動〉の二重作動は、快不快、感情などの表現を生み出し、そのフィードバックと、過去から必要なものを利用しながら記憶を〈想起−再構成〉している。ここでいう過去とは、顕在(言語)的なものから潜在(身体)的なものまでの記憶であり、気づき(無意識)と注意(意識)も二重作動している。
こうした現象のひとまとまりに、意識という措定された特異点(内在平面)があり、そこに「私」という現実感(人格層)が生まれているとみることもできるかもしれない。システム(意識)とトランス(無意識)は並行して作動しながら二重性と矛盾を持っている、あたかも精神と物質の相互作用のように。